「松平武聰」の版間の差分

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=== 松平武聰の上京問題 ===
[[戊辰戦争]]に際し、新政府は諸藩に対して恭順の意思表示を行って、藩主またはそれを代行できる身分の者(元藩主か世子)が上京して天皇に拝謁することが求められ、更に[[五箇条の御誓文]]が出された後は藩主もしくはその代理に公卿・諸侯による奉答書への書名をする事で、新政府下での藩の存続が保証された。この手続を行わない藩は例え実際に武力抵抗をしていないくても旧幕府に加担する「[[朝敵]]」とみなされ、反対に一旦「朝敵」とみなされた藩でも藩主が速やかに謝罪・謹慎をする事で宥免を受けることで、この手続に参加することができた<ref>水谷憲二『戊辰戦争と「朝敵」藩-敗者の維新史-』(八木書店、2011年)P10-16</ref>。
 
鶴田藩の場合、[[鳥羽・伏見の戦い]]を受けて、藩主である武聰が徳川慶喜の弟であることを理由に自主的に謹慎をしていたが、実際には長州征伐当時からの病気が回復していなかった<ref>慶応4年3月11日に尾関隼人から[[三条実美]]に充てられた書状では武聰は一昨年(慶応2年・1866年)初夏から心疾(心労による病気)を患っていると伝えている(水谷、2011年、P365)。</ref>。そこへ藩兵30名が[[竹中重固]]指揮下の旧幕府軍に参加していた事が判明したために問題となった。これに対して2月28日に新政府から鶴田藩に藩主自らの上京して謝罪をする事が命じられた。だが、武聰を上京させる事が不可能な病状で、世子である熊若丸(後の武修)も4歳の幼児で同じく上京不可能であった。このため、鶴田藩ではこのままでは自藩が朝敵として討伐されるとして、[[岡山藩]][[鳥取藩]]と相談の上で閏4月に家老3名の切腹をもって上京の延期を求める嘆願を提出した。新政府側も藩主・世子が上京できない事情は理解したものの、他藩との関係上鶴田藩だけに上京免除の例外を認める訳がいかず、一段重い処分として4月15日に家老1名の切腹を命じる事になり、同日在京していた[[尾関隼人]]が切腹をした。5月10日、同藩に2万7800石が加増され、最終的に6万1千石の石高となった背景には、新政府が結果的に重臣の切腹という厳罰を下さざるを得なかった事に対する埋め合わせの部分があったとみられている。なお、その後も武聰の病気は回復しなかったらしく、鶴田藩は全国で唯一手続の最終段階であった奉答書への署名は[[廃藩置県]]までに終える事が出来なかった。また、廃藩置県後の[[明治]]4年(1871([[1871]])8月23日に武聰が家族とともに東京へ移住した後も遂に皇居への参内は行われなかった<ref>水谷憲二『戊辰戦争と「朝敵」藩-敗者の維新史-』(八木書店、2011年)P14・363-367</ref>。
 
[[明治]]2年([[1869年]])6月24日、[[版籍奉還]]により鶴田[[知藩事|藩知事]]に就任する。明治4年([[1871(1871]])7月15日、廃藩置県により知藩事を免職となる。明治6年([[1873年]])3月23日、隠居して長男[[松平武修|武修]]に家督を譲る。明治15年([[1882年]])[[11月7日]]、41歳で死去した。
 
== 脚注 ==