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'''蒲池 武久'''(かまち たけひさ、? - [[延元]]元年/[[建武 (日本)|建武]]3年[[3月2日 (旧暦)|3月2日]]([[1336年]][[4月13日]]))は、[[蒲池久家]]の子。日向守。出羽守とも。正式な名のりは'''源武久'''(みなもと・の・たけひさ)。
 
[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]は[[南朝 (日本)|南朝]]方に属し、[[後醍醐天皇]]に反旗を翻した[[足利尊氏]]を迎え撃った[[多々良浜の戦い]]に[[菊池武敏]]の傘下で戦い、討ち死に。嫡子が無く、[[渡辺党蒲池氏|松浦党蒲池氏]]の最後の人物。
 
残された娘は、一人で家を守り、約20年後の南朝凋落の頃、[[筑後国|筑後]]の[[高良大社]]で同じ南朝方の[[筑後宇都宮氏]]の[[宇都宮久憲|宇都宮三河三郎久憲]]と出会い夫婦となり、久憲が[[蒲池氏]]の名跡と遺領を継ぐ。