「フリッツ・シュタインバッハ」の版間の差分

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| Name = フリッツ・シュタインバッハ<br />Fritz Steinbach
| Img = FritzSteinbach.jpg
| Img_capt = 1890年の肖像画
| Img_size = <!-- サイズが250ピクセルに満たない場合のみ記入 -->
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| Blood = <!-- 個人のみ -->
| School_background = [[フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ音楽演劇大学ライプツィヒ|ライプツィヒ音楽院]]<br />[[ウィーン国立音楽大学|ウィーン音楽院]]
| Born = [[1855年]][[6月17日]]<br />{{DEU1815}}<br />[[ファイル:Flagge Großherzogtum Baden (1891-1918).svg|24px]] [[バーデン (領邦)|バーデン大公国]][[グリュンスフェルト]]
| Died = {{死亡年月日と没年齢|1855|6|17|1916|8|13}}<br />{{DEU1871}}<br />{{BAY}} [[ミュンヘン]]
| Origin =
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}}
{{ウィキポータルリンク|クラシック音楽}}
'''フリッツ・シュタインバッハ'''(Fritz Steinbach, *[[1855年]][[6月17日]] [[グリューンスフェルト]] - [[1916年]][[8月13日]] [[ミュンヘン]])は、[[ドイツ]]の[[指揮者]]・[[作曲家]]。[[ヨハネス・ブラームス|ブラームス]]作品を得意としたことで名を遺している
 
== 歴 ==
[[バーデン (領邦)|バーデン大公国]][[グリュンスフェルト]]の音楽家の家庭に生まれる。[[フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ音楽演劇大学ライプツィヒ|ライプツィヒ音楽院]]に学んだ後、[[ウィーン国立音楽大学|ウィーン音楽院]]で[[グスタフ・ノッテボーム]]に[[音楽理論]]と[[対位法]]を、[[アントン・ドーア]]に[[ピアノ]]を師事した。[[1874年]]から[[1878年]]まで[[フランクフルト・アム・マイン|フランクフルト]]・[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]基金の[[奨学生]]に選ばれた。当初は作曲家として活動したが、1879年に[[マインツ]]で[[楽長|副楽長]]に任命されて指揮者としての活動が軌道に乗り始める。その後はフランクフルトで、作曲や対位法の教師として[[ヨアヒム・ラフ]]が院長を務める[[ホーホフランクフルト音楽・舞台芸術大学|ホーホ音楽院]]に勤めた。
 
[[1886年]]に、[[リヒャルト・シュトラウス]]から[[マイニンゲン宮廷楽団|マイニンゲン宮廷管弦楽団]]の[[宮廷楽長|楽長]]を引き継ぐ。同楽団は、[[1881年]]から[[1885年]]まで、かつて楽長[[ハンス・フォン・ビューロー]]のもとで精鋭オーケストラに育て上げられていた。[[マイニンゲン]]でシュタインバッハは、ブラームスに密に協力し、188年から[[1896年]]までしばしばブラームスを、[[ゲオルク2世 (ザクセン=マイニンゲン公)|ザクセン=マイニンゲン侯ゲオルク2世]]や宮廷楽団の貴賓としてもてなした。シュタインバッハは最も名高いブラームス指揮者として名を、ブラームス作品をずば抜とりわ数多く上演した。そのためこれによりブラームスの確固たる地位がいっそう演奏界に築き上げられた。ブラームスの遺産が今日までマイニンゲンの街で特別に受け継がれている理由は、このようにシュタインバッハが土台を築いたからだった。シュタインバッハは、首都マイニンゲンを、バイロイトを手本にブラームスの街にしようと努力し、音楽学校とブラームス演奏会館とを隣り合わせに建設することを画策した。この目的のため、[[1897年]]と[[1899年]]ならびに[[1903年]]の3度にわたって、ブラームス作品で構成されたザクセン=マイニンゲン地方音楽祭を首尾よく組織す。この音楽祭は、数多くのブラームスの専門家が一堂に会し、ヨーロッパの音楽祭の中でも大きな注目を集めた。1897年はブラームス本人が主賓として出席している。[[マイニンゲン宮廷楽団]]はシュタインバッハの指揮のもとに、1897年からたびたび演奏旅行を行い、[[スイス]]や[[オランダ]]、[[デンマーク]]、[[イングランド]]、[[ボヘミア]]の計85都市に297回客演した。ドイツで最初のブラームスの記念碑は、シュタインバッハの最終的な関与によって、[[1899年]]に彫刻家の[[アドルフ・フォン・ヒルデブラント]]によってマイニンゲンに建てられた
 
シュタインバッハはまた、[[ザクセン=マイニンゲン公国]]の首都マイニンゲンを、[[バイロイト]]を手本にブラームスの街にしようと努力し、音楽院を併設したブラームス演奏会館を建てることを計画した。この目的のために、[[1897年]]と[[1899年]]ならびに[[1903年]]の3度にわたって、ブラームス作品で構成されたザクセン=マイニンゲン地方音楽祭を成功裡に組織した。この音楽祭は、数多くのブラームスの専門家が一堂に会し、ヨーロッパの音楽祭の中でも大きな注目を集めた。1897年はブラームス本人が主賓として出席している。マイニンゲン宮廷楽団はシュタインバッハの指揮のもとに、1897年からたびたび演奏旅行を行い、[[スイス]]や[[オランダ]]、[[デンマーク]]、[[イングランド]]、[[ボヘミア]]の計85都市に297回客演した。ドイツで最初のブラームスの記念碑は、シュタインバッハの最終的な関与によって、[[1899年]]に彫刻家の[[アドルフ・フォン・ヒルデブラント]]によってマイニンゲンに建てられた。
マイニンゲン音楽院の計画が頓挫すると、シュタインバッハは[[1903年]]のはじめに[[ケルン]]に転居し、[[ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団|ギュルツェニヒ管弦楽団]]の指揮者と[[ケルン音楽院]]の院長に転身した。ケルン音楽院では、[[1914年]]7月まで作曲法と[[指揮法]]の教鞭を執り、[[ハンス・クナッパーツブッシュ]]や[[アドルフ・ブッシュ]]、[[フランツ・ミットラー]]らを指導した。
 
しかしマイニンゲン音楽院の計画頓挫すると、シュタインバッハは[[1903年]]のはじめに[[ケルン]]に転居し、[[ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団|ギュルツェニヒ管弦楽団]]の指揮者と[[ケルン音楽院]]の院長に転身した。ケルン音楽院では、[[1914年]]7月まで作曲法と[[指揮法]]の教鞭を執り、[[ハンス・クナッパーツブッシュ]]や[[アドルフ・ブッシュ]]、[[フランツ・ミットラー]]らを指導した。
その後ミュンヘンに帰り、1916年に同地で[[心筋梗塞]]のため世を去った。
 
その後[[ミュンヘン]]り、1916年に同地で[[心筋梗塞]]のため世を去った。
 
兄のエミール ([[:en:Emil Steinbach (conductor)|Emil Steinbach]]) も指揮者・作曲家で、[[リヒャルト・ワーグナー]]の曲を多く指揮した。スイスの指揮者[[ペーター・マーク]]は曾姪孫に当たる。
 
== 主要作品 ==
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== 外部リンク ==
* [http://www.meiningermuseen.de/brahmstext.html マイニンゲン博物館「マイニンゲンの音楽史」](独語) {{de icon}}
* [http://www.guerzenich-orchester.de/geschichte/ ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団の歴史](独語) {{de icon}}
 
{{先代次代|[[マイニンゲン宮廷楽団]]<br />音楽監督|1890年 - 1903年|[[ハンス・フォン・ビューロー]]|[[マックス・レーガー]]}}
{{先代次代|[[ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団]]<br />音楽監督|1902年 - 1914年|[[フランツ・ヴュルナー]]|[[ヘルマン・アーベントロート]]}}
{{Normdaten|PND=117245666}}
 
{{DEFAULTSORTデフォルトソート:しゆたいんはつは ふりつつ}}
[[Category:ドイツの指揮者]]
[[Category:ドイツの作曲家]]
[[Category:ロマン派の作曲家]]
[[Category:フランクフルト音楽・舞台芸術大学の教員]]
[[Category:ケルン音楽大学の教員]]
[[Category:1855年生]]
[[Category:1916年没]]