「壬生綱房」の版間の差分

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| 戒名 = 龍柱院殿雲山良瑞
| 官位 = 下総守、中務少輔
| 主君 = [[宇都宮成綱]]→[[宇都宮忠綱]]→[[宇都宮興綱]]→[[宇都宮尚綱]]
| 氏族 = [[壬生氏]]([[小槻氏]])
| 父母 = 父:[[壬生綱重]]、母:[[芳賀高益]]の娘
| 兄弟 = '''綱房'''、[[壬生周長|周長(徳雪斎)]]、[[大門資長|資長]]
| 妻 = 正室:法雲院殿大蓮妙鏡<br/>側室:[[横手一伯]]娘
| 子 = [[壬生綱雄|綱雄]]、[[座禅院昌膳|昌膳]]
}}
'''壬生 綱房'''(みぶ つなふさ)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の武将・[[戦国大名]]。[[壬生氏]]第3代当主で、[[下野国|下野]]の戦国大名・[[宇都宮氏]]の宿老である。[[権謀術数]]を駆使して[[芳賀高経]]などの重臣を失脚させ、宇都宮家中で絶大な権力を有するようになる。さらに晩年には[[下克上]]を果たし、[[宇都宮氏]]から独立する。[[壬生綱重]]の嫡男であり、子に、[[壬生綱雄|綱雄]]、[[座禅院昌膳|昌膳]]がいる。[[壬生周長|周長]]、[[大門資長|資長]]は弟。
 
== 略歴生涯 ==
=== 宇都宮成綱・忠綱家臣時代 ===
[[文明 (日本)|文明]]11年([[1479年]])に[[下野宇都宮氏]]の家老・[[壬生綱重]]の嫡男として誕生した。<ref>但し、系図によっては、1486年誕生説もある。</ref>
 
[[宇都宮成綱]]から偏諱を賜っている。
父である[[壬生綱重]]が[[鹿沼城]]を任されるようになってからは、綱房は[[壬生城]]主となった。[[宇都宮成綱]]の頃から[[宇都宮氏]]の家臣であったと言われているが、活躍の様子がわかるようになるのは、[[宇都宮成綱|成綱]]が[[1516年]]に没した後、18代当主の[[宇都宮忠綱]]の頃からである。[[永正]]17年([[1520年]])には、[[浄宝寺縄吊し合戦]]で功績を上げた。
 
父である[[壬生綱重]]が[[鹿沼城]]を任されるようになってからは、綱房は[[壬生城]]主となった。[[永正]]6年には[[1509年]]に[[宗長]]が[[鹿沼城|鹿沼]]に訪れた際に家臣の[[横手繁世]]と共に催し、句を披露した。この後、[[横手一伯]]の娘を側室として迎えたという。[[永正]]9年に起きた[[宇都宮錯乱]]の時も父に従い成綱方だったと思われる。[[永正]]17年([[1520年]])には、[[浄宝寺縄吊し合戦]]で[[那須氏]]の居城である[[山田城]]を謀略で落とすなどの功績を上げている。
[[大永]]3年([[1523年]])に主君・[[宇都宮忠綱]]が[[宇都宮興綱|芳賀興綱]]が主君[[宇都宮忠綱]]を追って家督を簒奪した際には綱房は忠綱派だったため、忠綱を居城に保護した。しかし、その後、忠綱を見限り、興綱らと裏で繋がり忠綱を暗殺したという。[[芳賀高経]]らと手を結んで興綱の主家乗っ取りの罪を追及し、[[天文 (元号)|天文]]5年([[1536年]])には興綱を自殺に追い込んだ。のちに高経とも対立し、同10年([[1541年]])興綱の子で宇都宮氏の家督を継いだ[[宇都宮尚綱]]とともにこれを滅ぼしている。同18年([[1549年]])[[喜連川五月女坂の戦い]]で尚綱が戦死すると[[宇都宮城]]を占拠したが、同24年(1555年)に急死した([[芳賀高定]]による謀殺とも)。また、[[弘治 (日本)|弘治]]3年([[1557年]])には、嫡男[[壬生綱雄|綱雄]]が守った宇都宮城も高定を始めとする宇都宮勢に奪還された。
 
[[大永]]3年([[1523年]])に[[皆川氏]]との間で起こった[[河原田合戦]]では宇都宮氏の皆川領侵攻に反対しており宇都宮軍の退路を遮断したという。<ref>「皆川正中録」</ref>同年、主君・[[宇都宮忠綱]]が[[結城政朝]]との対立で[[猿山合戦]]で敗北し、成綱の三男である[[宇都宮興綱|芳賀興綱]]が[[宇都宮城]]を乗っ取り、主君・[[宇都宮忠綱]]を追って家督を簒奪した際には綱房は忠綱派だったため、忠綱を居城に保護した。しかし、その後、忠綱を見限り、興綱らと裏で繋がり忠綱を暗殺したという。その後は[[芳賀高経]]・[[芳賀高孝]]ら反忠綱派によって擁立され、宇都宮宗家の家督と継いだ[[宇都宮興綱]]に仕えている。
 
=== 宇都宮興綱家臣時代 ===
この頃から野心をむき出しにしており、忠綱没後、綱房は[[日光山]]を掌握しようと、二男・[[座禅院昌膳]]を送り込み日光山の実質的な最高位である御留守職に就任させ、自身は[[享禄]]期の頃に日光山御神領惣政所となり、[[日光山]]の統治者となった。日光山岳の宿の改修や[[鹿沼市|鹿沼]]の[[今宮神社|今宮権現]]の造営など日光山の統治者しての活動に尽力した。
 
反忠綱派によって擁立された[[宇都宮興綱|興綱]]は当時10歳と若年であり、[[芳賀高経]]は興綱を傀儡として扱い[[宇都宮錯乱]]で失った権力を取り戻し、綱房もそれに乗じて瞬く間に権力を増大化させていき、興綱の代に宿老の地位を固めた。
 
興綱が成人して独自の行動を取るようになると綱房は[[芳賀高経]]とともに興綱と対立。一度は宇都宮家臣の[[赤埴氏]]・[[戸祭氏]]らの取り成しによって和解したが、その後再び対立した。[[天文 (元号)|天文]]元年([[1532年]])に[[芳賀高経]]、[[芳賀高孝]]と手を結んで興綱の主家乗っ取りの罪を追及し、強制的に隠居させ、今度は成綱の二男である[[宇都宮俊綱]]を擁立する。さらに[[天文 (元号)|天文]]5年([[1536年]])には高経とともに興綱を自殺に追い込んだ。
 
また、綱房は[[天文 (元号)|天文]]元年([[1532年]])に[[鹿沼城]]の大改築を行い、城を山城から平山城とした。
 
=== 宇都宮俊綱家臣時代 ===
[[天文 (元号)|天文]]期の頃になると綱房の権力の増大化によって[[壬生氏]]の地位は[[芳賀氏]]、[[益子氏]]に次ぐ相当なものになっていた。壬生領に隣接している[[小山氏]]の当主[[小山高朝]]が[[白河結城氏]]の[[結城義綱]]に心苦しいと書状を送ったほどであったという。また、同時期に綱房に対して危機感を抱いた[[芳賀高経]]と不和になる。綱房は興綱自害の一件で高経と関係が悪化している当主[[宇都宮俊綱]]に接近し高経と対立。綱房は高経の謀反の噂を流したとされる。高経が[[宇都宮氏]]と敵対している[[小山氏]]と関係を持ち始めたことをきっかけに[[天文 (元号)|天文]]10年([[1541年]])、[[古河公方]][[足利晴氏]]・[[小田政氏]]・[[佐竹義篤]]らとともにこれを滅ぼしている。
 
[[天文 (元号)|天文]]11年([[1542年]])、綱房の二男・[[座禅院昌膳]]は、[[壬生氏]]の力が[[日光山]]に及びすぎることに不満を抱き、[[粟野町|久野村]]に隠居した。それに対し綱房は昌膳の謀反の噂を捏造して広めさせ、嫡男の[[壬生綱雄]]に攻めさせ、これを滅ぼしたという。
 
高経がいなくなったことで綱房を抑えられる者はいなくなり、[[壬生氏]]は宇都宮家中で非常に大きい影響力を有した。
 
=== 晩年 ===
[[天文 (元号)|天文]]18年([[1549年]])[[喜連川五月女坂の戦い]]で[[宇都宮尚綱]]が戦死すると混乱に乗じて[[宇都宮城]]を占拠した。綱房は[[那須氏]]と和議し[[芳賀高経]]の子・[[芳賀高照]]を宇都宮城に招いて共同政治体制をしいた。しかし、実質的な支配者は綱房であり、高照は不安を抱いていたという。
 
綱房は[[壬生城]]に嫡男の[[壬生綱雄]]を置き、今まで居城だった[[鹿沼城]]に弟の[[壬生周長|壬生徳雪斎]]を置き、領内各地の城主らには本領安堵を約している。こうして周辺の守りを固め、敵対しているのは尚綱の子[[宇都宮広綱|伊勢寿丸]]を保護している[[芳賀高定]]のみとなった。
 
[[天文 (元号)|天文]]20年 ([[1551年]]) 、古河公方から援軍を要請された時には、嫡男の[[壬生綱雄]]を総大将にして出陣させた。この合戦には弟の[[壬生周長|壬生徳雪斎]]も従軍していたという。乗っ取られる前の[[宇都宮氏]]に匹敵する3000もの兵を動員し、大勝利する。この大戦果によって周辺国に[[壬生氏]]の勢いを見せつけることができた([[山王堂の戦い]])。
 
綱房は、着実に旧宇都宮領を侵攻し壬生領として版図を拡大させ、綱房に敵対する[[多功氏]]、[[今泉氏]]、[[芳賀氏]]を牽制した。[[塩谷氏]]はどちらにもつかず中立な立場をとった。
 
[[天文 (元号)|天文]]24年(1555年)[[芳賀高照]]が[[芳賀高定]]の謀略によって殺された後に綱房は急死した([[芳賀高定]]による謀殺とも)。綱房没後は嫡男[[壬生綱雄|綱雄]]が宇都宮城に入った。また、[[弘治 (日本)|弘治]]3年([[1557年]])には、[[壬生綱雄|綱雄]]が守った宇都宮城も高定を始めとする宇都宮勢に奪還された。
== 脚注 ==
<references/>
 
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