「長慶会盟」の版間の差分

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これらの研究を総合すると、820年代当時の唐・チベット・ウイグルの国境は、[[清水県]]の[[秦州]]や[[天水]]と、[[固原]]([[原州]])をむすぶ南北の線が、唐とチベットの国境線であった<ref name="mori351"/>。また、東西に走る[[ゴビ砂漠]]が、ウイグルとチベットとの国境であった。
 
なお、ゴビ=アルタイ東南部の[[{{仮リンク|セブレイ]]・ソム|label=セブレイ|mn|Сэврэй сум}}に、ウイグル語、ソグド語、漢文の三言語で記された[[セブレイ碑文]]が現存しているが、森安は、このセブレイ碑文を、ウイグル側が三国会盟を記念して、建立したとしている<ref>森安2007:353頁</ref>。
 
==脚注==