「高松藩」の版間の差分

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松平氏第5代藩主・[[松平頼恭|頼恭]]は[[平賀源内]]を起用し、城下の栗林荘(現在の[[栗林公園]])に薬草園を作らせた。また、医師の[[向山周慶]]に製糖技術を学ばせ[[白糖]]の製造を可能にした。これにより[[塩]]・[[綿]]と並ぶ[[讃岐三白]]の一つである讃岐[[和三盆]]糖の製造技術が確立し、現在も香川県の名産品の一つとなっている。9代藩主[[松平頼恕|頼恕]]は[[久米通賢]]を登用し、坂出の浜辺に日本最大級の塩田を開発した。
 
幕末は宗家である水戸藩が尊皇に傾き、一方で藩主・[[松平頼聰|頼聰]]の正室[[松平千代子 (井伊直弼の娘)|弥千代]]が[[井伊直弼]]の娘という立場から、苦しい立場に立たされた。結局、[[慶応]]4年([[1868年]])の[[鳥羽・伏見の戦い]]では旧幕府方に就いたため、朝敵となった。高松藩の庇護を受けていた京都の[[興正寺]]は高松に使者を派遣し、責任者の処罰を行って新政府に謝罪することを勧めた。そこで、家老2名を切腹させて恭順の姿勢を示すことになり、藩主・頼聰も[[浄願寺 (高松市)|浄願寺]]にて謹慎、同様に前藩主[[松平頼胤]]も江戸にて謹慎した。一方、土佐藩を中心とする討伐軍は丸亀藩・[[多度津藩]]を従えて高松に向かっていたが、高松藩と縁戚である[[徳島藩]]が協力に消極的で、[[伊予松山藩|松山藩]]討伐にも兵力を割く必要があった土佐藩や整備されていない丸亀・多度津両藩では攻略困難と見込まれたところに高松藩が恭順の見通しであることが判明し、1月20日に高松城は無血開城されると、直ちに同城に入って接収を完了させた。興正寺などの取り成しによって2月には藩主・頼聰に上京・謝罪が命じられ、土佐藩も高松城を返還して撤退した。その結果、4月15日に新政府への軍資金12万両の献上と引換に宥免された。ところが、この一連の動きに対する藩内の不満が高まり、明治2年9月に尊王派の[[松崎渋右衛門]]が暗殺され、頼聰以下の藩首脳はこの事件を松崎が新政府への反逆を企てた事が発覚した事による自殺として届け出た。だが、松崎と知己である[[木戸孝允]]らはこれを疑い、[[弾正台]]に再調査を命じる。その結果、藩内保守派による殺害と判明し、藩主頼聰は廃藩置県直前の明治4年7月に閉門処分を命じられるなど、多くの藩士が処分された<ref>水谷憲二『戊辰戦争と「朝敵」藩-敗者の維新史-』(八木書店、2011年)P158-167・387-389・397-398</ref>。
 
[[明治]]4年([[1871年]])、[[廃藩置県]]により[[高松県]]となり、のち香川県となった。