「クラフトワーク」の版間の差分

初期の活動で得られた資金を投入し手に入れたミニ[[モーグ・シンセサイザー|モーグ]]を使用し、新メンバー[[:w:Wolfgang Flür|ヴォルフガング・フリューア]]は自作の電子パーカッション等を駆使し、以前の音楽を新たなる次元に昇華させた[[1974年]]発表の4枚目のアルバム[[アウトバーン (アルバム)|アウトバーン]]が英米でヒット。とりわけ同名のシングル曲はそれまでの多くのミュージシャンがシンセサイザーを観念・瞑想的な音楽に使用したり楽曲の添え物として使用していた方法とは大きく異なり、全長20分を越し部分的には幾分瞑想的ではあるが'''即物的でありながらもあくまでもそれ自体を主体としたポップ・ミュージック<ref>ラルフは「我々は頭脳的な事ばかりを意味するエレクトロニック(ミュージック)に体幹(ハート=筋肉)を加えた」と表現している 1982年マーク・クーパーによるインタビュー</ref>'''という手法による一つの完成型と言える物となった。フローリアンの知人の音楽学校教授の生徒であり、クラシック畑の様々な仕事をこなしていた[[カール・バルトス]]も加わりアメリカ横断ツアー<ref>フローリアンは「自分たちのヒーローである[[ビーチ・ボーイズ]]と同じ地に立てて光栄だ」と語った。また楽曲アウトバーンの歌詞Wir fahr'n fahr'n fahr'n auf der Autobahnは正確なドイツ語を若干崩しておりビーチ・ボーイズの楽曲[[:w:Fun, Fun, Fun|ファン ファン ファン]]のフレーズを意識したと言われている(ヒットした要因にもあげられる) パスカル・ビュッシー『クラフトワーク―「マン・マシーン」とミュージック』</ref>も行われた(カール自身の言でもあるが以後のクラフトワークの楽曲の主な特徴として[[ファンク|ファンキーなリズム]]、[[ミュジーク・コンクレート]]、[[ポップ・ミュージック]]のミックスが挙げられる)。英国でも行われた当時のライヴ演奏の後 興奮の余り楽屋に訪れたという若き日の[[オーケストラル・マヌヴァーズ・イン・ザ・ダーク]]等、初期のクラフトワークの他のグループへの影響以上に知られている事だが主にエレ・ポップ、シンセ・ポップとしての[[ニュー・ウェーヴ (音楽)|ニュー・ウェーヴ]]や[[ニューロマンティック]]と呼ばれるミュージシャン達にも大きな影響を与えた。独創的なステージング<ref>「演奏者は音楽のダイナミズムを表現するためにステージ上で情熱的になる事が多いのにクラフトワークは徹底してクールですね」とのインタビューに対しラルフは「音楽は我々にとってより精神的なものなんだ。ボタンの操作を誤ってしまう訳にはいかないのでステージ上では無暗やたらに飛び回る事はできない。電子機材は非常に繊細なもので、その操作はミクロ単位でメスを動かすようなものなんだ」と答えている。また「オーディエンスの反応は気にしていますか?」と聞かれ「もちろんだ、我々は20人から2万人の前で演奏するがオーディエンスの反応はいつだってライヴの重要な要素さ」と答えている ストレンジ・デイズ2004年No.55 P69 ヴォルフガング・フリューア『クラフトワーク ロボット時代』</ref><ref>フローリアンの発案で制作された[[光電管]]制の巨大な檻型電子ドラムは反応が極めて不確実であったものの、何らかの面倒なトラブルに見舞われた日のステージに限って何故か上手く作動したとウォルフガングは著書ロボット時代で振り返っている</ref><ref>メンバーの名前があしらわれたネオンは専門店で働いていたフローリアンの妹が用意した物であった</ref>も注目され、当時からクラフトワークの熱狂的なファンであり、後に彼らと親交を持ちスタジオ・ワークによる創造的絶頂を[[ベルリン三部作]]で迎えた[[デビッド・ボウイ]]<ref>当時ラルフはボウイとのコラボレーションについて示唆した事があったがグループの独自性を優先する為に実現はされなかった</ref><ref>パンク・ロックの祖の一人とされながらも知的な一面でも知られる[[イギー・ポップ]]と共に楽曲[[ヨーロッパ特急 (アルバム)|ヨーロッパ特急]]の歌詞に登場している(これもボウイを通じて実際に面会した経験が元になっている。イギーは当時ラルフとフローリアンに夢中だった) パスカル・ビュッシー『クラフトワーク―「マン・マシーン」とミュージック』P123 </ref><ref>ボウイは特にフローリアンの乾いたユーモアを評価しておりアルバム[[英雄夢語り (ヒーローズ)]]に彼の名を冠したV-2 シュナイダーなる楽曲を収めた</ref>がコンサートの最前列席を買い占めた事や、[[イアン・カーティス]]が愛好していた事が[[ジョイ・ディヴィジョン]]の使用機材<ref group="出典">ドキュメンタリー映画[[:w:Joy Division (2007 film)|Joy Division]]</ref>や後の[[ニュー・オーダー]]の音楽性に影響を与えた事等も知られている。
 
既に自らのスタジオ[[:w:Kling Klang Studio|KLING KLANG]]<ref>アルバム放射能制作当時のスタジオ内では[[キンクス]]が愛聴されていた パスカル・ビュッシー『クラフトワーク―「マン・マシーン」とミュージック』</ref>を構えており、初期の頃からの協力者であった[[コニー・プランク]]から独立したクラフトワークは自らの成功によって経験した出来事等にインスピレーションを得た作品を次々と発表する<ref>初期からアルバム人間解体以前のクラフトワークは日本などでは「ジャーマン・[[プログレッシブ・ロック]]」として紹介されていた</ref>(例えば[[:w:Radio-Activity|自分たちの音楽がラジオで流された事]]や[[:w:The Man-Machine|インタビューを自身に似せたロボットに受けさせるという空想]]<ref>アウトバーン・ツアーでのヘビー・スケジュールから喚起されたと同時に彼らに対するイメージがやがて“マン・マシーン”なるコンセプトへと繋がっていった パスカル・ビュッシー『クラフトワーク―「マン・マシーン」とミュージック』</ref>等々)。特に翌年に発表された5枚目のアルバム[[放射能 (アルバム)|放射能]]({{Lang-de-short|Radio-Aktivität}}、{{Lang-en-short|Radio-Activity}})以降、彼らのほぼ全てのアルバムは作品毎に何らかのコンセプトをヴィジュアルと合わせて提示しているのが特徴<ref>2012年より開催されている『Retrospective 1 2 3 4 5 6 7 8』ではこの特徴がそのまま活かされていると言える</ref>であり、感情を感じさせない無機的で禁欲的な謎めいた印象も彼らの意図した通りに確立された。これは同時期に興っていた[[パンク・ロック|パンク・ムーヴメント]]<ref>因みにクラフトワークを脱退しノイ!で活動した時期のクラウス・ディンガーのボーカルがパンク的歌唱の祖とする説もある</ref>へのアンチテーゼである<ref>少なくともウォルフガングはそう意識していたと著書ロボット時代に記している</ref>とも言われ、また当時の彼等の姿勢は衝動的なパンクと大作主義的なプログレの中間<ref>アルバムヨーロッパ特急のドイツ国内盤のジャケットで使用されたモノクロの写真は[[ラモーンズ]]のデビューアルバムのジャケット写真に見られる現実重視型のアプローチからの影響を反映している。これはクラフトワークの様に高価な機材を扱うバンドとしては異例のアプローチであった パスカル・ビュッシー『クラフトワーク―「マン・マシーン」とミュージック』P123</ref><ref>パンクの興隆と共にプログレッシヴ・ロック・シーンは勢いを弱めていったが クラフトワークはその確信犯的な非人間性・非観念性によって糾弾を免れたのみならずパンク~ニュー・ウェーヴムーヴメントの中でも特殊な磁力を発する事となった</ref>であると考える者もいる。
 
ヴィジュアルや歌詞等のイメージに関してはアウトバーン以前からのステージには出ないメンバーであった詩人で画家の[[:w:Emil Schult|エミール・シュルト]]の貢献は大きく、当時のヴィジュアル・コンセプトには[[表現主義]]や[[第二次世界大戦|大戦]]によって中断された[[1930年代]]のドイツ・[[モダニズム]]や[[エル・リシツキー]]等[[ロシア構成主義]]を意識した物などがある。アルバム人間解体では赤と黒を基調としたイメージが[[ナチス・ドイツ|ナチズム]]を連想させながらも東側を向いている事や楽曲[[コンピューター・ワールド]]に於ける歌詞などが政治的にも多様な物と捉えられた 。尚後年のラルフを筆頭にしたサイクリングへの高い関心もスタミナのあったエミールに教えられた事がきっかけであった。
作品発表のペースからしても{{要検証範囲|一般的には[[1980年代]]初頭にかけてが彼らの最初の全盛期と見なされている|date=2013年5月}}。現在に至るまでのライヴの定番曲の多くもこの時期に生み出されたものである<ref>これはビートルズや[[チャック・ベリー]]、[[ローリング・ストーンズ]]などのファンでもあったカールのメロディセンスに因るところも小さくない パスカル・ビュッシー『クラフトワーク―「マン・マシーン」とミュージック』</ref>。
 
日本では[[1978年]]発表の7作目のアルバム[[人間解体]]によって[[ディーヴォ]]とともに[[テクノポップ]]を成立させるきっかけとなり、[[イエロー・マジック・オーケストラ]]に於いてはアウトバーン以前の頃から関心を持っていた[[坂本龍一]]<ref>初来日時に親交を持った坂本龍一が後年にリリースしたシングル[[ZERO LANDMINE]]にサウンドロゴを提供した。またNO NUKES2012で初披露された[[福島第一原発事故]]を意識した日本語の歌詞も坂本龍一の監修である SIGHT特別号 NO NUKES (ノーヌークス) 2012 2012年 09月号</ref>による他のメンバーへの紹介により結成当初のコンセプトに影響を与える事となる<ref>[[細野晴臣]]は「ヨーロッパ的にいこうとしてもクラフトワークを聴き込むほどドイツとかヨーロッパの歴史の深さは勝て圧倒されるばかりだたんです。れは僕らにはできない。彼らに対抗する方法論が見つけだせなかったそんな時に北京の楽団が自分たちは東洋人であるという自覚意識刺激して打ち出そうと思った」と語っている{{要出典|date=2013年5月}} Yellow Magic Orchestra USA (2003リイシュー時のインタビューより)</ref>。
 
[[テレックス (ベルギーのバンド)|テレックス]]の[[ダン・ラックスマン]]は、最初にクラフトワークの[[アナログシンセサイザー]]によるドラムの音に惹かれたと語り<ref group="出典">[http://d.hatena.ne.jp/snakefinger/20060716/p4 「ベルギーのクラフトワーク」テレックス・インタビュー]</ref>、デビュー以前に人間解体に衝撃を受け、彼らに一目置いていた[[U2]]の[[ボノ]]<ref>クラフトワークを「ヨーロッパ的[[ソウルミュージック|ソウル]]」と評し、16歳の頃に後に妻となったアリソンに人間解体のLPをプレゼントした事もフロム・ザ・スカイ・ダウンで語られる</ref>は2011年に公開されたドキュメンタリー映画[[:w:From the Sky Down|フロム・ザ・スカイ・ダウン]]で彼らの方向転換的大作として知られるアルバム[[アクトン・ベイビー]]の制作当時、クラフトワークからの影響があったと明し、[[ジ・エッジ]]は「リズムを学ぶ上で彼等は無視できない」と発言した<ref>U2は[[:w:Vertigo (U2 song)|シングル]]に[[:w:Neon Lights|ネオン・ライツ]]のカヴァーを収録している</ref>。[[1981年]]の8作目のアルバム[[コンピューター・ワールド]]の発表に伴い、頭にターバンを巻いた観客達をも熱狂させた[[インド]]公演等を含む初の大規模なワールド・ツアーを敢行する(初来日<ref>メンバー全員にとって気配りの行き届いた日本は心地よく「絶対にまた来よう」と確約し合ったという。またウォルフガングは著書ロボット時代に“日本の都市における秩序と相互の生活への気配りに関して、私たちヨーロッパ人はまだまだ学ぶことがある”と記している</ref>公演も果たす)。
匿名利用者