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'''野間 隆実'''(のま たかざね、生年不詳 - [[天文 (元号)|天文]]24年([[1555年]])[[4月11日 (旧暦)|4月11日]])は、[[戦国時代 (日本) |戦国時代]]の[[武将]]。
父は[[野間興勝]](おきかつ)。[[大内義興]]より[[偏諱]]を受けた父に倣い、子である隆実も[[大内義隆]](義興の子)より偏諱を賜った。別名、'''隆則'''(たかのり)。弟に[[野間則全|則全]](のりまさ)がいる。刑部大輔。正室は[[熊谷信直]]娘。
野間氏は元々[[尾張国]]野間荘を根拠とする一族で、[[文安]]年間に[[野間重能]]が安芸国に所領を得て移住した。最盛期には矢野から焼山、吉浦一帯、そして[[倉橋島]]を所領とし、[[阿曽沼氏]]や[[平賀氏]]、[[竹原小早川氏]]とも度々争って勢力を拡大した。
== 生涯 ==
安芸[[国人]]衆であり、また矢野城とも縁の深い[[熊谷氏]]当主・[[熊谷信直]]の娘を妻とし、義理の兄弟でもある[[吉川元春]]や、その父、[[毛利元就]]とも懇意であった。天文20年([[1551年]])に
天文24年(1555年)1月、野間隆実は白井房胤とともに仁保島城を攻撃。毛利氏との敵対を明らかにした。毛利元就は野間隆実がまさか毛利氏を裏切り、陶側に味方すると思わず、これに激怒して矢野城攻めを決意した。同年4月、毛利軍の南下を知った陶晴賢は、[[山口]]より[[羽仁源七]]や小幡某に兵100余を預け、矢野城に入城させて防備を強化した。毛利軍は矢野城を包囲した後に攻城戦を開始、毛利軍の猛攻の前に城は落城寸前となった。ここで野間隆実の舅である熊谷信直が降伏勧告を行い、隆実は生命の保証を条件にこれを受け入れ、矢野城は開城した。
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