「ロシア・ツァーリ国」の版間の差分

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ロシアにおける南西地域の拡大、特に東部ウクライナの併合は予期せぬ収穫であった。大部分のウクライナ人は正教徒だったが、彼らは[[カトリック教会|ローマ・カトリック]]およびポーランドの[[対抗宗教改革]]と深く関わってきており、こうした経験が彼らに西欧の知的潮流をもたらしていた。[[キエフ・モヒラ・アカデミー]]を通じて、ロシアはポーランドおよびその他の中央ヨーロッパの国々、およびより多くの正教会世界と交流を持つようになった。ウクライナが持つ交流の幅は様々な分野におけるロシアの文化的創造力を刺激した一方で、ロシアの伝統的な宗教実践や文化を蝕んだ。ロシア正教会は自分達の典礼書や宗教実践が知らず知らずのうちに[[コンスタンティノープル]]のそれと乖離してしまったことに驚いた。
 
モスクワ総主教{{仮リンク|ニーコン (モスクワ総主教)|en|Patriarch Nikon|label=ニーコン}}は、ロシアの典礼書を[[ギリシア]]式と一致させることを決断した。ところがニーコンは、ギリシア式との一致は正教ではない堕落したカトリックの不適切な流儀の侵入、悪魔の所業であると考える多数のロシア人から烈しい抗議を受けた。彼らは1551年の百章会議において公式に確立された伝統的な典礼こそが正しく、また、典礼は単なる形式ではなくそれぞれ古来から伝わりかつ百章会議で認められた重大な意義を持つため、その変更は重大な教義の歪曲であると考えていた。ニーコンによるロシア正教会の改革(古儀式派の観点から見ると破壊)は、結果として[[1667年]][[2月10日]]に反ニーコン派[[:en:Joasaphus II]]が総主教に即位した結果、[[シスマ]](教会分裂)を引き起こした。改革を受け容れない反ニーコン派の人々は[[古儀式派]](「ラスコーリニキ」及びその訳語の「分離派」は主流派教会側からの蔑称)と呼ばれ、彼らは主流派ロシア正教会(古儀式派側からみると[[ニーコン派]]教会)及び国家から異端として断罪され苛烈な迫害を受けた。この教[[1682年4月24日]]、古儀式派の有力な指導者の一人だった長司祭[[アヴァクーム]]は、火刑に処せられた。教会分裂は決定的なものとなり、多くの商人や小作農が古儀式派教会に加わった。
 
ツァーリの宮廷もウクライナおよび西欧の影響から免れなかった。[[キエフ]]は府主教[[ペトロー・モヒラ]]によって創設された学術性の高さで名高い[[キエフ・モヒラ・アカデミー]]を通じて、新しい知識や思想の伝達装置の役割を果たした。この新知識のロシアへの流入は、[[バロック]]様式の[[モスクワ・バロック|建築]]、文学、{{仮リンク|シモン・ウシャコフ|en|Simon Ushakov}}の[[イコン]]制作などに結実した。その他にロシアと西欧との直接のパイプとなったのは国際貿易の進展とそれに伴って増加した外国人の到来である。ツァーリ宮廷は西欧の進んだ技術に興味を示し、特に軍事部門での革新には熱心だった。17世紀の終わりまでに、ウクライナ、ポーランド、そして西欧の文化の浸透は(少なくとも上流階級については)ロシアの伝統文化への固執を失わせ、抜本的な西欧化改革への準備を整えた。