「全日本学生自治会総連合」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
78行目:
 
=== 全共闘の時期 ===
[[1966年]](昭和41年)[[12月17日]]に[[共産主義者同盟|ブント]]、[[革命的共産主義者同盟全国委員会|中核派]]、[[社青同解放派]]の三派が全学連再建大会を明治大学で開いた。[[1967年]](昭和42年)の[[羽田闘争]]ではこの三派が主導する'''三派全学連'''が登場した。(初代委員長:[[斉藤克彦]]明大社会主義学生同盟)その後、1968年に起こった[[明大学費値上げ反対闘争]]でブントが大学側に譲歩したことから全学連でのブント社学同の勢力が失墜し、1969年までに三派全学連は解体し、中核派系全学連と社会党社青同解放派、ブント系の'''反帝全学連'''が並立する。
 
60年敗北の総括をめぐる争いの中でブント各派をそして中核派を全学連執行部からたたき出した[[日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派]](以下、'''革マル派「全学連」''')は三派「全学連」設立の際にも参加することなく、東大闘争のさなか早稲田祭実行委員会指導部にいた解放派をこの実行委員会の指導権を巡って武力で早大から駆逐し、さらには東大駒場でも解放派を追撃した。