「鳥海山大物忌神社」の版間の差分

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* 『続日本後紀』 承和5年(838年)5月11日の条 [[従五位|従五位上]]より[[正五位|正五位下]][[勲等|勳五等]]へ進1級の陞叙。
* 『続日本後紀』 承和7年([[840年]])7月26日の条
*: 正五位下勳五等を[[従四位|従四位下]]勳五等へ陞叙。前年に遭難した[[遣唐使|遣唐使船]]が海賊の襲撃にあった際、寡兵で海賊を撃退したが、これは同じ頃に噴火して神威を表した大物忌神の加護によるものであるとして、[[神封戸|神封]]2戸の寄進と共に[[仁明天皇]]の宣命が添え下された。
* 『日本三代実録』 [[貞観 (日本)|貞観]]4年([[862年]])11月1日の条 [[正四位|正四位下]]勳五等へ陞叙。また、[[延喜式神名帳|官社]]に指定された。
* 『日本三代実録』 貞観6年([[864年]])2月5日の条 正四位下勳五等より[[正四位|正四位上]]勳五等へ陞叙。
* 『日本三代実録』 貞観6年([[864年]])11月5日の条 正四位上勳五等より[[従三位]]勳五等へ陞叙。
* 『日本三代実録』 貞観15年([[873年]])4月5日の条
*: 従三位勳五等より[[正三位]]勳五等へ陞叙。貞観13年(871年)の大噴火沈静後、山頂社殿を再建し宿祷報祭記を行ったのを受け陞叙された。
* 『日本三代実録』 [[元慶]]2年([[878年]])8月4日の条
*: [[元慶の乱|秋田夷乱(元慶の乱)]]において朝廷軍が敗退したのを受け占ったところ、古来より征戦に霊験を有する大物忌神、[[月山神社|月山神]]、[[小物忌神社|小物忌神]]の3神が、神気賊に帰して祈祷が届かなくなってしまったと出た。そこで爵級を増せば霊応あるべしとして、正三位勳五等を正三位[[勲等|勳三等]]に進めた。『日本三代実録』によれば、これより前の元慶2年(878年)7月10日の条で[[神封戸|神封]]2戸が加増され、4戸となっている。
* 『日本三代実録』 元慶4年([[880年]])2月27日の条
*:正三位勲三等より[[従二位]][[勲等|勳三等]]へ陞叙。[[元慶の乱|秋田夷乱(元慶の乱)]]平定後、平時に復したのを受け陞叙となった。これが[[中世#日本|中世]]以前では最後の昇叙の記録であるが、『本朝世紀』天慶2年(939年)4月19日の条において[[出羽国|出羽]][[国司]]が官符を賜った時は[[正二位]]勳三等となっている。
* [[元文]]元年([[1736年]]) 蕨岡の願い出により[[正一位]][[勲等|勳三等]]に昇進。
 
 
* <div id="吹浦、蕨岡の論争">'''吹浦、蕨岡の論争'''</div>
*: 吹浦の宗徒社人は山上の大物忌神を吹浦に[[遷宮|遷座]]したと説くと共に月山神を[[分霊|勧請]]し、両所宮と称して[[神宮寺]]の創建より隆盛を来たしていた。これに対し蕨岡の宗徒社人は山上の鳥海山大権現の学頭[[別当]]と称し、直接山上に奉仕していた。この考え方の違いがお互いに反目する原因となっていたが、蕨岡宗徒が吹浦からの登山者を差し止めたことから両者の論争となり、[[承応]]3年([[1654年]])ついに庄内藩や江戸[[寺社奉行]]に訴えが出された。幕府検使の臨検の後、[[明暦]]元年(1655年)に次の判決が出た。
*:# 訴えのあった[[神札|守札]]の書付について、吹浦は鳥海山と書いていた証拠が無いので両所山と書き、蕨岡は大堂のある松岳山と書いていた証拠があるので松岳山と書くこと。
*:# 吹浦からの登山者を蕨岡は差し止めないこと。
*: この裁断の後、山上に直接奉仕しているのは蕨岡宗徒であると言う認識が確定的なものとなり、山頂社殿の建替や嶺境争い等の山頂に関連した論争に吹浦は感知しない状態となってしまった。
 
* <div id="蕨岡、矢島の御堂建替の論争">'''蕨岡、矢島の御堂建替の論争'''</div>
*: [[修験道]]には[[紀伊国|紀伊]]の[[熊野三山|熊野]]に始まった順峰と逆峰の2つの法式があるが、鳥海山においては蕨岡が順峰、矢島と滝沢が逆峰を称し、古来より順逆両部勤行の霊山として修行が行われていた。それにもかかわらず、矢島と滝沢の間に逆峰名称の論争が起き、また蕨岡と矢島の間には順逆の論争が発生した。この状況により滝沢は蕨岡の援助を得て逆峰院主を矢島から奪ったが、[[延宝]]6年([[1678年]])矢島は論争のすえ逆峰院主を取り戻した。これにより矢島と滝沢の逆峰院主の論争は終結し、また蕨岡と矢島も順逆お互いの法式を相犯さないと確認した。しかし[[元禄]]14年([[1701年]])山頂社殿建替えの話が上がると、矢島は逆峰側で建替えるのが至当であると、本山である[[三宝院]]に総代3名を送って陳訴した。これに対し三宝院は順逆両方で申し合わせのうえ相勤めよとの和解書を蕨岡へ出したが、これまで一山を取り仕切り、山頂社殿を建替えてきた蕨岡はこれを不服として三宝院へ訴状を出した。その後、順逆双方から書類を出し、同年11月に三宝院[[鳳閣寺]]より次の裁断が下された。
*:# 山頂社殿を順逆宗徒が交互に造営する理由は見当たらないので、これまで通り順峰側が建替えること。
*:# 順峰が鳥海山[[龍頭寺 (遊佐町)|龍頭寺]]の寺号を最近名乗り始めたとのことであるが、順峰側では古来より名乗っている寺号とのことであった、よって逆峰側が更なる証拠を見つけてから申し出ること。
*:# 山頂社殿の[[天和 (日本)|天和]]2年([[1682年]])の棟札を遊佐郡から飽海郡へ書き換えているのは、幕府の命に従った為である。
*:# 嶺境は行政の領分なので当方では裁断できない。後日判明した際に双方より申し立てること。それまでは従来の通りにすること。
*:# 鳥海山は古来より順逆両部の山であるので、今後も順逆申し合わせのうえ古例のごとく勤仕すること。
*: この裁断により一旦は息を潜めたかに見えた順逆の論争であるが、山頂社殿建替後の遷宮式において矢島の群衆が棟札を奪い取る事件が発生し、再燃することとなる。
 
* <div id="蕨岡、矢島の嶺境の論争">'''蕨岡、矢島の嶺境の論争'''</div>
*: 建替え論争に破れた矢島宗徒は、[[三宝院]]が「嶺境は行政の領分なので後日申し立てること」としたことを以って嶺境の訴訟を起こした。しかしながら嶺境問題は宗徒間のみならず[[庄内藩]]と[[矢島藩]]にとっても重大問題であることから、最後は両藩が相争う状態となって行く。[[元禄]]16年([[1703年]]) 三宝院[[鳳閣寺]]はこれまでの建替論争の経過に付帯文書を添え、さらにその顛末を述べて[[江戸幕府|幕府]][[寺社奉行|寺社奉行所]]に裁決を出願した。寺社奉行所では審理の末、嶺境は不明だが『[[日本三代実録]]』に大物忌神社が飽海郡山上にあることが明記されているので、棟札は飽海郡と書くのを妥当とし、嶺境は不問とするよう裁決を出した。この裁決に矢島宗徒は従わず、それに加え、この問題が重大な国境問題となる矢島藩が領内百姓の名を以って寺社奉行に訴え出た。ここに至り寺社奉行はこの問題を重大事と判断して[[評定所]]の審理に移した。評定所は庄内の修験百姓に答弁書提出を命じ、翌[[宝永]]元年([[1704年]])庄内修験百姓等は答弁書を提出した。これに対し矢島宗徒は吹浦宗徒の主張を利用し、大物忌神社は吹浦に[[遷宮|遷座]]しており現在の山頂社殿は由利郡に属するものであると主張、追訴した。評定所は現地に検使を派遣して検分と共に聞き取り調査を行い、かつ双方の修験百姓を江戸に呼び出し吟味した結果、同年9月次の判決を言い渡した。
*:# 『日本三代実録』の記述どおり山頂社殿を大物忌神社とし、山頂社殿の所在する場所は飽海郡とする。<ref>『鳥海山史』では、『日本三代実録』の誤読を蕨岡が強引に根拠とし、主張を行ったと述べている。すなわち『日本三代実録』貞観13年5月16日の条は「'''従三位勳五等大物忌神社在飽海郡山上。巖石壁立。'''」(従三位勳五等大物忌神社は飽海郡の山上に在り。巖石が壁立し。)ではなく「'''従三位勳五等大物忌神社在飽海郡。山上巖石壁立。'''」(従三位勳五等大物忌神社は飽海郡に在り。山上は巖石が壁立し。)が正しい読み方であり、大物忌神社は山頂を遥拝できる平地にあったので、山頂は飽海郡では無いと考察している。姉崎岩蔵 『鳥海山史』 ㈱国書刊行会 1983年12月 より。ちなみに『國史大系 第4巻 日本三代実録』では、貞観13年5月16日の条に「'''従三位勳五等大物忌神社在飽海郡山上。巖石壁立。'''」と句読点を付している。</ref>
*:# 西は笙野岳腰より稲村岳の8分に亘り、東は女郎岳の腰までをもって郡境と定める。
*: これにより、由利郡側山腹(秋田側山腹)の7合目より以南が飽海郡になった。 また、この判決に関し、いくつかのいざこざが庄内藩と矢島藩の間に起こったと言われる。
 
* <div id="吹浦の一宮名号使用の訴願">'''吹浦の一宮名号使用の訴願'''</div>
*: [[宝永]]元年([[1704年]])の[[評定所]]の判決以降、山上に直接奉仕しているのは蕨岡宗徒であると強く認識されるようになり、その勢力は増して行った。勢力の増大により、蕨岡宗徒は山頂社殿を[[出羽国]][[一宮]]大物忌神社、蕨岡を鳥海山表口[[別当]]、吹浦を[[摂末社|末社]]と称するに至り、吹浦大物忌神社は全く蕨岡に奪われたも同然の状態となってしまった。宝永4年([[1707年]])[[社家]]の進藤曾太夫邦實はこれを嘆き、回復を計らんとして一宮の名号を吹浦に許されることを[[庄内藩]]に訴願した。鶴岡の寺社奉行が吟味した結果、太夫の訴願は[[江戸幕府|幕府]]の嶺境裁断において山頂社殿を大物忌神社とした際の判決を戻すとして、「公義御裁許破り」の罪名で太夫を出羽一国追放にした。
 
=== 明治以降 ===
 
== 現地情報 ==
; '''所在地'''
* 山頂御本社:[[山形県]][[飽海郡]][[遊佐町]]大字吹浦字鳥海山1
* 吹浦口之宮:山形県飽海郡遊佐町大字吹浦字布倉1
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[[Category:山形県の神社]]
[[Category:遊佐町の歴史]]
[[Category:名神大社]]
[[Category:出羽国の式内社|名ちようかいさんおおものいみしんしや]]
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