「楊応龍の乱」の版間の差分

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== 経過 ==
播州は[[川]]と[[貴州]]を結ぶ交通の要所にあり、険しい山や数万畝の田地を有する地。住民の多くは熟苗と呼ばれる中華文化に馴染んだ[[苗族]]であり、漢風氏名を有し漢風文化を理解すると共に村落を形成して農耕を行っていた。また、山間部には生苗と呼ばれる中華文化に染まらずに、原始的な狩猟や農耕を行う苗族も居た<ref name="okano1971">岡野昌子「明末播州における楊応竜の乱について」1971年</ref>。
 
明朝はこれらの非漢族の土地を統治するため、土着勢力の部族統率者や漢族系在地勢力を世襲的に[[土司]]・土官に任命して間接統治を行った。楊氏も[[唐|唐代]]より[[宋 (王朝)|宋]]・[[元 (王朝)|元]]・明の各王朝で代々播州を根拠地としており、漢族・苗族の統治にあたった土司であった。在地権力者の一人として[[楊応龍]]は1572年([[隆慶]]6年)に宣慰使を継承し、苗族鎮撫を主な任務として明朝に仕えた。播州宣慰使は黄平・草塘の2安撫司と真州・播州・白泥・余慶・重安・容山の6長官司を管轄し楊応龍の当地における権限は相当な大きさであった。また、土司は中央政府より、名目的な朝貢と定額の納税、そして常時の派兵が義務付けられていた。明朝の中央軍制が荒廃していくにつれて地方土着の土司の戦力比重が大きくなっていた<ref name="okano1971"/>。
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