「法秀院 (山内一豊母)」の版間の差分

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==墓所==
[[File:Hōshūin's Grave.jpg|thumb|200px|滋賀県米原市宇賀野の法秀院の墓]]
法秀院は、一豊が[[長浜城]]主であった[[天正]]14年([[1586年]])[[7月17日 (旧暦)|7月17日]]に、長野家で病死したといわれている。現在、長野家には法秀院縁月妙因大姉の位牌があり、墓所は宇賀野にある。一方で、天正18年死去説、また長浜で死去して[[要法寺 (高知)|要法寺]]に埋葬され、後に要法寺が土佐に移された際に[[位牌]]を安置したという説もある。その後[[土佐山内氏|山内家]]ではその存在が忘れられていたが、[[寛政]]2年に[[土佐藩]]から藩士馬詰権之助を派遣して2度調査を行い、長野家に対して保護を加えることとした。馬詰はこれに関して、当主の早世が祖先の墓所を疎略にしたためであると聞かされ、近江にその墓所があることを聞いてやって来たと返答している。当初は[[彦根藩]]や土佐藩からの照会もなく長野家も当惑したが、後に彦根藩の了解を取り付けた<ref>長浜城歴史博物館、66-67頁。</ref>。後に長野家は永代秩禄も受け、これは明治の[[廃藩置県]]まで続いた<ref>山本、47-49頁。</ref>。[[大正時代]]にも『[[歴代公紀]]』の編集委員により調査が行われているが、その時は一部所持品が当時のものではないとされている<ref>渡部、85-86頁。</ref>。また、『土州様御墓所ニ付書翰類留記』によると、宇賀野の墓所では、毎月6月末日に子供たちの掃除が行われ、7月13日には聖霊迎えと呼ばれる[[迎え火]]、15日夕方には聖霊送りとして同様の[[送り火]]が行われていた。<ref>長浜城歴史博物館、66-67頁。</ref>。
 
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