「正木通綱」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
2行目:
 
伝承によれば、[[三浦義高]]またはその養子の[[三浦義同]]の子とされる。
<br>前者の説によれば[[1494年]]の[[三浦氏]]の内紛で義高が義同に殺害された時に、後者の説によれば[[1518年]]に[[北条早雲]]によって三浦氏が滅ぼされた時に、幼児であった通綱が[[安房国]]正木郷に落ち延びて、成長して後に三浦氏と友好関係にあった里見氏によって重臣に抜擢されたと言われている。<br>だが、前説の唱える内紛は歴史的に存在発生の事実そのものを証明するもの文献などは無く、後説では子供達の生没年と合致しないために、こうした説は後年[[徳川御三家]]の重臣となった子孫が自らを三浦氏の嫡流とした系譜を創作した可能性がある。<br>古文書によれば、内房地域の[[水軍]]勢力に三浦氏の一族と思われる武士達が存在しており、その中に正木氏の存在も確認される。通綱も元はこうした水軍を率いた三浦氏庶流の武将の一人であったものと思われる。
 
[[里見義通]]から一字拝領を受けて「通綱」と名乗り、その弟である[[里見実堯]]の配下の将として[[上総国]]へと侵攻している。また、義通の後を継いだ[[里見義豊]]の命を受けて[[武蔵国]][[品川|品川湊]]への攻撃を指揮しており、急速に里見氏の家中で重きをなした。だが、実堯と義豊の関係が不穏になると、実堯に近い通綱に対しても譜代の重臣の反発が高まるようになる。<br>こうした状況下の中で[[1533年]]、[[稲村城]]において義豊によって実堯ともども殺害されてしまった(「'''[[稲村の変]]'''」、一説には古傷の悪化によって稲村城に登城しなかった通綱は殺害を免れたものの、脱出して居城の山之城に逃げ込んだ直後に無理な移動がたたってそのまま危篤状態となり死亡したとする伝承もある)。