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{{政治家
[[ファイル:WSchaeuble.jpg|thumb|ヴォルフガング・ショイブレ]]
|各国語表記 = Wolfgang Schäuble
'''ヴォルフガング・ショイブレ'''('''Wolfgang Schäuble''', [[1942年]][[9月18日]] - )は、[[ドイツ]]の[[政治家]]。[[1998年]]から[[2000年]]まで[[ドイツ]][[ドイツキリスト教民主同盟|キリスト教民主同盟]](CDU)の[[党首]]を務めた。また[[ヘルムート・コール]]内閣で首相府長官と内相を歴任し、2005年からは[[アンゲラ・メルケル]]内閣で再び内相を務めた。同内閣で[[2009年]]より財相に転じている。
|画像 = WSchaeuble.jpg
|画像説明 = ヴォルフガング・ショイブレ(2006年3月)
|国略称 = {{GER}}
|生年月日 = {{生年月日と年齢|1942|9|18}}
|出生地 = {{GER}} [[フライブルク・イム・ブライスガウ|フライブルク]]
|没年月日 =
|死没地 =
|出身校 =
|所属政党 = [[ドイツキリスト教民主同盟]]
|称号・勲章 =
|配偶者 = Ingeborg Schäuble(1969年 - )
|愛称 =
|サイン =
|ウェブサイト = http://www.wolfgang-schaeuble.de/
|サイトタイトル = Dr. Wolfgang Schäuble MdB: Dr. Wolfgang Schäuble MdB
|国旗 = ドイツ
|職名 = 財務相
|内閣 = 第2・3次[[アンゲラ・メルケル]]内閣
|選挙区 =
|当選回数 =
|就任日 = [[2009年]][[10月28日]]
|退任日 = 現職
|退任日 =
|退任理由 =
|元首職 =
|元首 =
<!-- ↓省略可↓ -->
|国旗2 = ドイツ
|職名2 = 内相
|内閣2 = 第1次アンゲラ・メルケル内閣
|選挙区2 =
|当選回数2 =
|就任日2 = [[2005年]][[11月22日]]
|退任日2 = [[2009年]][[10月27日]]
|退任理由2 =
|元首職2 =
|元首2 =
|国旗3 = ドイツ
|職名3 = 内相
|内閣3 = 第3次[[ヘルムート・コール]]内閣
|選挙区3 =
|当選回数3 =
|就任日3 = [[1989年]][[4月21日]]
|退任日3 = [[1991年]][[11月26日]]
|退任理由3 =
|元首職3 =
|元首3 =
|国旗4 = ドイツ
|職名4 = 国務相兼首相府長官
|内閣4 = 第2次ヘルムート・コール内閣
|選挙区4 =
|当選回数4 =
|就任日4 = [[1984年]][[11月15日]]
|退任日4 = [[1989年]][[4月21日]]
|退任理由4 =
|元首職4 =
|元首4 =
|国旗5 = ドイツ
|職名5 =
|内閣5 =
|選挙区5 =
|当選回数5 =
|就任日5 =
|退任日5 =
|退任理由5 =
|元首職5 =
|元首5 =
|国旗6 = ドイツ
|その他職歴1 = 第6代 [[ドイツキリスト教民主同盟|キリスト教民主同盟]] 党首
|就任日6 = [[1998年]]
|退任日6 = [[2000年]]
|国旗7 =
|その他職歴2 =
|就任日7 =
|退任日7 =
|国旗8 =
|その他職歴3 =
|就任日8 =
|退任日8 =
|国旗9 =
|その他職歴4 =
|就任日9 =
|退任日9 =
|国旗10 =
|その他職歴5 =
|就任日10 =
|退任日10 =
|国旗11 =
|その他職歴6 =
|就任日11 =
|退任日11 =
|国旗12 =
|その他職歴7 =
|就任日12 =
|退任日12 =
|国旗13 =
|その他職歴8 =
|就任日13 =
|退任日13 =
|国旗14 =
|その他職歴9 =
|就任日14 =
|退任日14 =
|国旗15 =
|その他職歴10 =
|就任日15 =
|退任日15 =
<!-- ↑省略可↑ -->
}}
'''ヴォルフガング・ショイブレ'''('''Wolfgang Schäuble''', [[1942年]][[9月18日]] - )は、[[ドイツ]]の[[政治家]]。[[ドイツ連邦共和国]]財務相(第2・3次[[アンゲラ・メルケル]]内閣)。
 
ドイツ連邦共和国国務相兼首相府長官(第2次[[ヘルムート・コール]]内閣)、ドイツ連邦共和国内相(第3次コール内閣・第1次メルケル内閣)、[[ドイツキリスト教民主同盟|ドイツキリスト教民主同盟(CDU)]][[党首]]などを歴任した。
 
== 経歴 ==
=== 出自・家族生い立ち ===
[[1942年]][[9月18日]]、[[フライブルク・イム・ブライスガウ|フライブルク]]に生まれる。[[1961年]]、[[アビトゥーア]]合格。[[アルベルト・ルートヴィヒ大学フライブルク|フライブルク大学]]と[[ハンブルク大学]]で法学と経済学を学ぶ。[[1966年]]、第一次法曹試験に合格し大学を修了。[[1970年]]、第二次法曹試験に合格。[[1971年|翌年]]、[[博士 (法学)|法学博士]]号を取得する。同時に[[バーデン=ヴュルテンベルク州]]の税務署で働くようになり、後にフライブルクの税務署の管理部門主任となる。[[1978年]]から[[1984年]]までは[[オッフェンブルク]]で[[弁護士]]として働いた。
 
弟トーマスも政治家で、[[バーデン=ヴュルテンベルク州]]内相を務めた。ショイブレは経済学者の夫人との間に四子をもうける。娘の一人はCDUの[[ドイツ連邦議会|連邦議会]]議員(CDUの同州事務局長)と結婚している。
 
[[1992年]]に[[フリードリヒ・アレクサンダー大学エアランゲン=ニュルンベルク|エアランゲン・ニュルンベルク大学]]よりから[[2005年]]11月に母校フライブルク大学からついで[[2009年]]6月に[[エバーハルト・カール大学テュービンゲン|テュービンゲン大学]]よりから、それぞれ名誉博士号を授与された。
 
[[ファイル:EinigungsvertragBRD-DDR.JPG|thumb|ドイツ外務省に保管されている、東西ドイツ統一条約文書。ページ左側に'''ショイブレ'''の署名がある]]
 
=== 政界入り ===
政治と関連を持ち始め活動に参加しきっかけは、[[1961年]]に[[ドイツキリスト教民主同盟]](CDU)の青年部(Junge Union)に参加したのが始まりことである。在学中ハンブルク大学のキリスト教民主主義学生連盟(RCDS)代表を務める。[[1965年]]にCDU党員となる。り、[[1969年]]から[[1972年]]まで南バーデンの青年部委員長を務める。1972年、連邦議会に初当選。1976年‐1984年、党のスポーツ委員会委員長。1981年‐1984年、連邦議会院内総務
 
[[1972年]]、連邦議会に初当選。[[1976年]]から[[1984年]]まで党のスポーツ委員会委員長を務め、[[1981年]]から[[1984年]]までは連邦議会院内総務も務めた。
[[1984年]]、第二次[[ヘルムート・コール]]内閣に[[国務大臣]]兼首相府長官として入閣。1987年の[[エーリッヒ・ホーネッカー]]・[[ドイツ民主共和国]](東ドイツ)[[国家評議会議長]]による[[西ドイツ]]訪問の交渉責任者となった。内閣改造による第三次コール政権の成立に伴い、1989年4月から内相に転じる。翌年の[[統一条約|東西ドイツ再統一条約]]交渉に西ドイツ側代表として参加し、1990年8月31日に調印した。[[ドイツ再統一|統一]]直後に行われた連邦議会選挙戦の最中の[[1990年]]12月、精神病の男性に背後から銃撃を受け、脊髄に重傷を負う。命は取り留めたものの下半身麻痺となり、以後は車椅子生活となっている。犯人の男性は責任能力無しとみなされ精神病院に収容されたが、のちにこの事件を謝罪し、2004年には仮退院した。この選挙戦では野党[[ドイツ社会民主党]](SPD)の首相候補[[オスカー・ラフォンテーヌ]]も精神病の女性に刺され、瀕死の重傷を負っている。
 
=== コール内閣 ===
[[1984年]]、第2次[[ヘルムート・コール]]内閣に[[国務大臣]]兼首相府長官として入閣。[[1987年]]、[[ドイツ民主共和国|ドイツ民主共和国(東ドイツ)]][[国家評議会議長]][[エーリッヒ・ホーネッカー]]による[[西ドイツ]]訪問の交渉責任者となった。内閣改造による第3次コール政権の成立に伴い、[[1989年]]4月から内相に転じる。[[1990年]]の[[統一条約|東西ドイツ再統一条約]]交渉には西ドイツ側代表として参加し、同年8月31日に調印した。
 
[[ドイツ再統一]]直後に行われた連邦議会選挙戦の最中である[[1990年]]12月、精神病の男性に背後から銃撃を受け、脊髄に重傷を負う。命は取り留めたものの下半身麻痺となり、以後は[[車椅子]]生活を送っている。犯人の男性は責任能力無しとみなされ精神病院に収容されたが、後にこの事件を謝罪し、[[2004年]]には仮退院した。この選挙戦では野党[[ドイツ社会民主党]](SPD)の首相候補[[オスカー・ラフォンテーヌ]]も精神病の女性に刺され、瀕死の重傷を負っている。
 
[[ファイル:Wolfgang Schäuble.Pfingstmontag.Wallenstein.4018.jpg|thumb|観劇する'''ショイブレ'''と夫人(2007年、ベルリン)]]
 
=== CDU党首 ===
[[1991年]]から[[2000年]]まで、CDU・CSU連邦議会議員団長を務める。ショイブレはコールの後継者と見なされたが、コールはなかなか党首の地位を明け渡そうとせず、[[1997年]]にショイブレを後継党首に指名したものの、少なくとも[[2002年]]までは党首に留まるつもりであると宣言した。しかし首相・党首の座に執着したコールは[[1998年]]の連邦議会選挙で大敗してSPDによる政権交代を許し、辞任に追い込まれた。直後の[[1998年]]にショイブレがCDU党首に就任。しかし翌年になって、コール時代の1994年にショイブレ自身が武器商人からCDU宛に10万[[ドイツマルク]]の不正献金を受けていた疑惑が発覚。最初は沈黙していたが2000年1月になってこれを認めて謝罪し、2月に党首を辞任した。後任党首には[[アンゲラ・メルケル]]幹事長が選出された。なお[[汚職]]罪の追及は証拠不十分で捜査が停止された。
 
コールの辞任直後にショイブレがCDU党首に就任するが、翌年になって、コール党首時代の[[1994年]]にショイブレが武器商人からCDU宛に10万[[ドイツマルク]]の不正献金を受けていた疑惑が発覚する。最初は沈黙していたが、2000年1月になってこれを認めて謝罪し、2月に党首を辞任した。後任党首には幹事長[[アンゲラ・メルケル]]が選出された。なお、[[汚職]]罪の追及は証拠不十分で捜査が停止された。
2001年、[[ベルリン]]の[[エーベルハルト・ディープゲン]]市長のリコールに伴う選挙に、市長候補としてショイブレを推す声もあったが、スキャンダルの直後だけに地元議員に拒否された。同様に2004年でも[[連邦大統領 (ドイツ)|大統領]]選挙に党の重鎮として候補に取りざたされたが、やはりクリーンなイメージに欠けるということで早々に外された。2002年の連邦議会選挙後に党副幹事長に就任していたが、2005年11月、アンゲラ・メルケル政権の成立に伴い、再び内相として入閣した。この入閣にも批判する声があった。[[2009年ドイツ連邦議会選挙]]後は連立組み替えにより財相に転じた。
 
[[2001年]]、[[ベルリン]]市長[[エーベルハルト・ディープゲン]]のリコールに伴う選挙では、市長候補としてショイブレを推す声もあったが、スキャンダルの直後だけに地元議員に拒否された。2004年にも党重鎮として[[連邦大統領 (ドイツ)|大統領]]選挙候補に取りざたされたが、クリーンなイメージに欠けるとの理由で早々に外された。
 
=== メルケル内閣 ===
[[2002年ドイツ連邦議会選挙]]後には党副幹事長に就任していたが、[[2005年]]11月のアンゲラ・メルケル政権成立に伴い、14年ぶりに再び内相として入閣する。この入閣にも批判する声があった。
 
[[2009年ドイツ連邦議会選挙]]後は連立組み替えにより財務相に転じ、[[2013年ドイツ連邦議会選挙]]後に発足した第3次メルケル内閣でも財務相に留任した。
 
== 政治姿勢 ==
=== 保守強硬派 ===
ショイブレはCDUの中でも保守派とみなされている。1991年に統一ドイツの首都を[[ボン]]からベルリンに戻すことが決められたが、その決定にはショイブレの国会演説が大きな役割を果たした。また[[ヨーロッパ大陸]]の中央に位置する[[神聖ローマ帝国]]の歴史に照らして、[[愛国主義]]は健全な国民意識であり、ヨーロッパの理念と対立するものではないと肯定的に捉えている。またエリートにその意識をもつことを主張している。学校での[[イスラム教]]の宗教教育には賛成しているが、宗教的シンボルとしてのスカーフ着用には「ヨーロッパの価値観にそぐわない」として反対している。SPDの[[ゲアハルト・シュレーダー]]政権が進めた国籍法改正に反対し、同化主義を主張して二重国籍制度に反対するキャンペーンを繰り広げた。
ショイブレは、CDUの中でも[[保守派]]とみなされている。
* [[1991年]]、統一ドイツの首都を[[ボン]]からベルリンに戻すことが決められたが、その決定にはショイブレの国会演説が大きな役割を果たした。
* [[ヨーロッパ大陸]]の中央に位置する[[神聖ローマ帝国]]の歴史に照らして、[[愛国主義]]は健全な国民意識であり、ヨーロッパの理念と対立するものではないと肯定的に捉えている。
* エリート層に対しては、エリートとしての意識を持つことを主張している。
* 学校での[[イスラム教]]の宗教教育には賛成しているが、宗教的シンボルとしてのスカーフ着用には「ヨーロッパの価値観にそぐわない」として反対している。
* SPDの[[ゲアハルト・シュレーダー]]政権が進めた国籍法改正に反対し、同化主義を主張して二重国籍制度に反対するキャンペーンを繰り広げた。
 
メルケル政権の内相時代には強硬な姿勢が指摘された。
* 内相時代は[[対テロ戦争]]を想定して国内の治安維持に[[ドイツ連邦軍]]が出動出来るよう[[ドイツ連邦共和国基本法|憲法]]改正を主張した。
* テロ危険人物の収容施設設置や、国外でのテロリストに対する拷問により得られた情報の利用を提案し、野党のみならず[[大連立]]の相手であるSPDからも強い反対を受けた。
* オンライン捜査を認める憲法改正も主張する。
* ドイツ国内で開催された[[2006 FIFAワールドカップ]]や[[第33回主要国首脳会議]]([[ハイリゲンダム]]・サミット)の際は、治安維持や反[[グローバリゼーション]]活動家対策のため、[[欧州連合|EU]]内のドイツ国境での入国審査を一時的に復活させた。このような姿勢は旧東ドイツの「[[シュタージ]]」のような監視国家体制に繋がると非難された。
 
=== 財務相として ===
メルケル政権の内相・財務相としても強硬な姿勢が指摘されている。内相時代は[[対テロ戦争]]を想定して国内の治安維持に[[ドイツ連邦軍]]が出動出来るよう[[ドイツ連邦共和国基本法|憲法]]改正を主張している。またテロ危険人物の収容施設設置や、国外でのテロリストに対する拷問により得られた情報の利用を提案し、野党のみならず[[大連立]]の相手であるSPDからも強い反対を受けた。オンライン捜査を認める憲法改正も主張している。ドイツ国内で開催された[[2006 FIFAワールドカップ]]や[[第33回主要国首脳会議]]([[ハイリゲンダム]]・サミット)の際は、治安維持や反[[グローバリゼーション]]活動家対策のため、[[欧州連合|EU]]内のドイツ国境での入国審査を一時的に復活させた。このような姿勢は旧東ドイツの「[[シュタージ]]」のような監視国家体制に繋がる、と彼の反対派は非難している。
[[2010年欧州ソブリン危機|ユーロ圏ソブリン危機]]の渦中に財務省に就任したが、[[2011年]][[11月29日]]のユーロ圏財務相会議([[ブリュッセル]])に先立ち、「例えば[[リスボン条約]]第14条などの限定的な条約により、欧州の機関が安定成長協定の責務を強化することが可能になるよう望む」と発言する<ref>[http://www.bloomberg.co.jp/news/123-LVFNUW07SXKX01.html ショイブレ財務相:ドイツは財政規律強化に向けた条約変更を望む] 2011年11月29日付 Bloomberg.co.jp</ref>。
 
財務相就任は[[2010年欧州ソブリン危機|ユーロ圏ソブリン危機]]渦中でのものだったが、2011年11月29日のユーロ圏財務相会議([[ブリュッセル]])に先立ち「例えば[[リスボン条約]]第14条などの限定的な条約により、、欧州の機関が安定成長協定の責務を強化することが可能になるよう望む」と発言<ref>[http://www.bloomberg.co.jp/news/123-LVFNUW07SXKX01.html ショイブレ財務相:ドイツは財政規律強化に向けた条約変更を望む] 2011年11月29日付 Bloomberg.co.jp</ref>。同年12月6日、[[スタンダード&プアーズ]](S&P)がユーロ圏15カ国の長期・短期ソブリン信用格付けを引き下げ方向で見直すと声明したことに対し「全世界の市場は今ユーロ圏を全く信用していない」「S&Pの見直し声明は、欧州の首脳らに約束を果たすこと、つまり必要な決定を一つ一つ下し、世界の投資家の信頼を回復することを促す」と評し<ref>[http://www.bloomberg.co.jp/news/123-LVSEUZ1A1I4H01.html S&Pはユーロ圏の応援団、警告は首脳らへの「激励」-独財務相] 2011年12月6日付 Bloomberg.co.jp</ref>、「非常に誇張したもので公正でない」<ref>[http://jp.reuters.com/article/jp_eurocrisis/idJPTYE7B504920111206 S&Pユーロ圏格付け見直し、非常に誇張したもの─ユーロG議長=報道] 2011年12月6日付 ロイター・ジャパン</ref>と批判した[[ユーログループ]]議長の[[ジャン=クロード・ユンケル]]と対照的な態度を示した。その一方、[[欧州委員会]]が2011年[[11月23日]]に打開策として提案した<ref>[http://www.bloomberg.co.jp/news/123-LWIH7S0D9L3501.html ユーロ共同債、発行に向けて取り組み前進を-欧州議会の経済委員会] 2011年12月20日付 Bloomberg.co.jp</ref>ユーロ共同債については「まず各国の財政規律の強化が確実になってから」と否定的な主張見解ている <ref>[http://www.bloomberg.co.jp/news/123-LVDP8B0UQVI901.html ドイツ財務相:ユーロ共同債の議論は「安定同盟」の達成後に可能に] 2011年11月28日付 Bloomberg.co.jp</ref>。
 
== 注 ==
<references />
 
== 外部リンク ==
{{commonscat|Wolfgang Schäuble}}
* [http://www.wolfgang-schaeuble.de/ 公式ホームページ] {{de icon}}
* [http://www.bundestag.de/bundestag/abgeordnete/bio/S/schaewo0.html ドイツ連邦議会 経歴紹介] {{de icon}}