「石苞 (西晋)」の版間の差分

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'''石 苞'''(せき ほう、?-[[272年]])は、[[中国]][[三国時代 (中国)|三国時代]]から[[西晋|晋]]の[[軍人]]。[[魏 (三国)|魏]]・西晋に仕えた。[[字]]は'''仲容'''。 [[冀州]][[勃海郡]][[南皮県]]の人。子は石越・石喬・石統・石浚・石儁・石崇の父、。孫は石超・石熙・石順の祖父。[[冀州]][[勃海郡]][[南皮県|南皮]]の人
 
== 生涯 ==
学問に優れ、容姿も人並み以上であった。はじめは地元の県の小役人であり、御者の仕事や[[鄴]]の市場での鉄売りの仕事に従事していた。特に御者の仕事は[[トウ艾|鄧艾]]と共に行い、『世語』によると鄧艾とは同い年で12歳から13歳ぐらいであったという。やがて郭玄信(郭誕の子)や許允といった名士に認められ、中央に出て立身出世するようになった。なお『世語』においては、[[青龍 (魏)|青龍]]年間に[[長安]]で鉄売りをしていた際、[[司馬懿]]にその才能を見出されり立てられたとしている。
 
司馬懿には、人格的に問題がある人物として軽く見られていたが、その子[[司馬師]]には才能を認められ重用を受け、中護軍司馬・[[太守]]を経て、[[徐州]][[刺史]]に抜擢された。[[252年]]の東関の役においては、司馬師の弟[[司馬昭]]が監軍として参加していたが、[[東興の戦い]]で[[呉 (三国)|呉]]に敗れた味方が大敗する中で、軍勢を失わずに帰還した事が評価された。司馬昭が魏の実権を握ると[[都督]][[青州]]諸軍事にり立てられ、[[兗州]]刺史の[[州泰]]などを監督下においた。
 
[[257年]]、[[諸葛誕]]が反乱を起こした時に監軍として出陣し、[[胡烈]]と協力して諸葛誕の援軍として駆けつけた呉の[[朱異]]を破るなど功績を挙げ、諸葛誕の滅亡後に鎮東将軍に昇進し、仮節・東光侯を得た。[[259年]]、[[荊州]]諸軍事となった[[王基]]の後を受けて[[揚州]]諸軍事となり、対呉の最前線である[[寿春]]を守った。[[260年]]、皇帝[[曹髦]](高貴郷公)に謁見した後、司馬昭の前で曹髦を絶賛した。その直後に曹髦は死去した。征東大将軍・[[驃騎将軍]]と昇進を続けた。[[265年]]、司馬昭が死去すると、司馬昭が帝位に就かずに亡くなった事を悲しんだ。その直後、[[陳騫]]と共に[[皇帝]][[曹奐]](元帝)対し「(魏の)暦数(寿命)は既に尽き、天命がございます」と迫り、暗に司馬氏への[[禅譲]]を促した。同年、曹奐からの禅譲を受け[[司馬炎]](武帝)が皇帝に即位すると、[[大司馬]]に任じられた上[[侍中]]・楽陵郡公をも得た。
 
ところが、石苞は出自が貧しかったため、その出世を妬まれており、[[孫楚]]のように軽侮するものや、王琛(王覧の子)のように讒言するものもいた。特に王琛は、当時流行した「大きな石が馬を踏み潰す」という童謡を石苞の謀反の兆候だとした。これに対して呉の[[丁奉]]策略を用い石苞と武帝司馬炎の離間を図ったため、疑心暗鬼となった武帝司馬炎は子の石喬を呼び出し事情を聞こうとしたが、。しかし石喬は呼び出しに応じなかった。そのため[[268年]]、石苞は謀反人として寿春から召し返された。その際、司馬駿から石苞の危険な立場を知らされていた側近の孫鑠の進言を受けて、武装解除の上で邸宅にて謹慎した。大司馬を免じられたものの、[[羊コ|羊祜]]や郭廙の弁護もあったため武帝司馬炎の誤解解け、新たに[[司徒]]に任じられる事になった。石苞は石喬を勘当し武帝司馬炎に謝罪すると共に、農業政策の重要性を唱えるなど、武帝司馬炎に対して忠勤を惜しまなかった。
 
[[272年]]死去。葬儀は簡素にするよう子達に命じた。武帝司馬炎は[[陳泰]]の葬儀を前例にし、より丁重に遇した。
 
跡は石統が継いだ。末子の石崇は財産家として知られ、王済([[王渾]]の子)・王愷([[王粛]]の子)と贅沢競争をした逸話で有名であをもっているが、[[司馬倫]]が実権を握った時代に[[孫秀 (西晋)|孫秀]]に疎まれたため刑死した。先に勘当された石喬石崇に連座し、また孫の石超は[[八王の乱]]末期の混乱の中で死去した。子孫の中には、[[後趙]]の[[石勒]]に同姓の誼みでり立てられ、高官に昇った者もいる。
 
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