「張悌」の版間の差分

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== 生涯 ==
若くして才智に長けていた。[[裴松之]]が注に引く『襄陽記』には、幼少の頃に[[諸葛セイ|諸葛靚]]に向かって「あなたの家の[[丞相]]([[諸葛亮]]あるいは[[諸葛恪]])に抜擢された」という本人の言葉がある。その後、呉に仕えた。また[[孫休]]の時代には屯騎校尉となった。[[魏 (三国)|魏]]の[[司馬昭]]が[[蜀漢]]討伐の兵を起こした時([[蜀漢の滅亡]])、張悌は必ず[[司馬氏]]が勝利すると予したという。呉の人々が張悌の言葉を笑い飛ばしたが、果たして蜀は魏に降伏した。
 
[[孫皓]]の時代には[[軍師]]となった。[[279年]]、[[丞相]]に昇進したが、その直後に[[西晋|晋]]の[[呉の滅亡 (三国)|侵攻]]を受けた。
 
張悌は孫皓の命を受け、[[沈瑩]]・諸葛靚らと共に3万の軍勢を率い、晋軍の[[長江]]渡河を迎撃しようとした。沈瑩は「長江を渡って戦えば、勝てたとしてもこの地を維持するのは難しい。また、敗北すれば国家の危機は決定的となる。今は渡るべきでない」と言った。だが張悌は「呉が滅びかかっているのは賢者でも愚者でも解っておる。このまま敵の進撃を許せば、不安になった兵が逃散し、戦わずして降伏する破目になる。国難において死ぬ者が一人もいないのは、国の恥ではないか」と言って長江を渡り、[[王渾]]率いる晋軍に決戦を挑んだ。しかし、呉軍は敗北し壊滅した。諸葛靚が使者を送って張悌に退却を勧めたが、張悌はその場を動かなかったという。このため、諸葛靚が自ら張悌の元に赴き再度逃亡を促したが、張悌は「身を以て国に殉ずることができるなら、どうして避けたりしようか」と言ってこれを退け、乱戦の中で戦死した。
 
『[[捜神記]]』の逸話によると、柳栄という人物は病死した2日後、突然激昂して生き返ったという。人々が彼に訳を尋ねると、柳栄は「天に昇って北斗門に迫ると、張軍師が縄で縛られていたのだ。思わず大声で叫ぶと、なぜか門から追い返されてしまった」と話した。果たして、張悌の戦死も偶然その日だったとある。
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