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'''許 靖'''(きょ せい、? - [[222年]])は、[[中国]][[後漢]]末期から[[三国時代 (中国)|三国時代]]の政治家。
当初は後漢の官僚であったが、晩年は[[蜀漢]]に仕えた。[[字]]は'''文休'''。[[豫州]][[汝南]][[平輿県]]の人。従兄は許湯。従弟は許虔(許子政)<ref>『[[後漢書]]』郭符許列伝第五十八 - 許劭伝</ref>・[[許劭]](許子将)<ref>「[[月旦評]]」による人物評で有名な人物。</ref>兄弟の従兄。許湯の従弟子は許欽の父孫は許游の祖父。『[[三国志 (歴史書)#蜀書|蜀書]]』に独立した伝がある。
 
当初は後漢の官僚であったが、晩年は[[蜀漢]]に仕えた。[[字]]は'''文休'''。[[豫州]][[汝南郡]][[平輿県]]の人。許虔(許子政)<ref>『[[後漢書]]』郭符許列伝第五十八 - 許劭伝</ref>・[[許劭]](許子将)<ref>「[[月旦評]]」による人物評で有名な人物。</ref>兄弟の従兄。許湯の従弟。許欽の父。許游の祖父。『[[三国志 (歴史書)#蜀書|蜀書]]』に独立した伝がある。
 
== 生涯 ==
[[陳紀]]に兄事し、[[華キン|華歆]]・[[王朗]]・[[袁渙]]とも親交を結んだという。若くして従の許劭とともに、人物評価について高い評判を得ていたが、許劭とは仲が良くなかった。許劭[[太守]]の[[徐キュウ|徐璆]]に任命され郡の功曹(郡の人事権を握る役職)となったが、許靖をり立てようとしなかったため、許靖は生活のために馬磨きの仕事をしたこともあった。後に、太守が劉翊に代わと[[孝廉]]に挙げられ、[[尚書]]郎となった
後に、太守が劉翊に代わると、[[孝廉]]に挙げられ、[[尚書]]郎となった。
 
[[霊帝 (漢)|霊帝]]が没し、[[十常侍]]と[[何進]]が共に滅びた後、[[董卓]]が朝廷を牛耳るようになると、董卓は許靖と[[周ヒ|周毖]]に人事を管轄させた。許靖は汚職をした者を追放する一方、[[荀爽]]・韓融・陳紀・[[韓馥]]・[[孔チュウ|孔伷]]・[[張バク|張邈]]・[[劉岱 (東莱)|劉岱]]らを、中央の要職や地方の長官に任命した。許靖自身も[[巴]]郡太守に任命されたが、任地に赴かず朝廷に留まり、[[御史中丞]]となった。
 
しかし後に、韓馥らが董卓に謀反を起こすと(反董卓連合)、その責を問われ周毖が董卓に処刑された。許靖は難を逃れるため朝廷を離れ、陳国の相であった従兄の許湯を頼り、豫州[[刺史]]となっていた孔伷の下に身を寄せた。孔伷が死去すると、[[揚州]]刺史の陳禕(陳温)に身を寄せ、陳禕が死ぬと旧交のあった[[許貢]]・[[王朗]]を頼り、[[江東]]に渡った。
 
[[孫策]]が揚州を席捲し王朗を攻撃すると、許靖は[[交州]]に難を避けたが、このとき一族の多くが餓死した<ref>[[裴松之]]は孫策に仕えなかった事を非難しているが、後に許靖が曹操に送った手紙によると、[[会稽]]に攻め寄せてきたのは[[袁術]]だと考えていたようである。</ref>。交州を支配していた[[士燮 (交阯太守)|士燮]]には礼をもって遇された。同じく交州に逃れていた袁徽[[荀イク|荀彧]]に手紙を送り許靖の人物を賞賛したが、[[曹操]]が交州に派遣した使者の張翔は、許靖を強引に招聘しようとしたため許靖に忌避されてしまい、腹いせに許靖の出した手紙を全て捨てた。
 
後に、[[益州]]の[[劉璋]]に招聘されて巴郡・[[広漢]]郡の太守に任命された。[[荊州]]の[[宋忠]]は、蜀郡太守の王商に手紙を送り許靖を礼賛した。許靖は王商のことを、[[中原]]に生まれていれば王朗にも勝っただろうと称えている。[[211年]]、王商が死去すると許靖が後任の蜀郡太守に転任した。
 
[[214年]]、[[劉備]]が劉璋を攻め[[成都]]を包囲すると、許靖は劉璋を見捨て成都城を脱出しようとしたが、発覚し捕らえられた。劉璋は許靖を咎めず、処刑しなかった。後に劉備が益州を支配すると、劉備は許靖を嫌い任用しようとしなかった。しかし、[[法正]]が「許靖の高名は天下に聞こえ渡っており、許靖を任用しないのなら多くの人は公(劉備)が君子を軽んじているのではと思うことになります」と劉備に対し説いたので、[[左将軍]]長史に任じられた(「法正伝」<ref>[[孫盛]]、かつて董卓に仕えて官位を得ていた過去持ち出して許靖を批判しているが、[[裴松之]]は孫盛に反論し許靖を擁護している。</ref>)。
 
劉備が[[漢中王]]になった際は、鎮軍将軍の職にあり、王になるよう推挙した群臣の中に名を連ねている(「先主伝」)。後に、太子[[劉禅]]の補佐役([[太傅]])を任された。
 
[[220年]]、後漢が[[魏 (三国)|魏]]への[[禅譲]]により滅亡した。その後、[[献帝 (漢)|献帝]]が殺害されたという誤報が蜀にもたらされると、[[221年]]、群臣と共に漢の皇帝として即位することを、劉備に勧めた。劉備が皇帝にな即位すると、[[司徒]]に任命された(「先主伝」)。
 
その頃70歳を過ぎていたが、人材を重んじ、脱世の議論を好んだといわれる。222年に没した。
 
魏の重臣となった華歆・王朗や、陳紀の子[[陳羣]]らとの親交は生涯を通して続き、手紙のやり取りをして旧交を温めたという。あるとき、王朗は劉備が没したことを知り、許靖に手紙を送って、劉禅・諸葛亮らの帰順を促そうとしたが、。しかし許靖は既に没していた(『魏略』)。
 
また、許靖は親類縁者や同郷の人を引き取って養育したという。
 
== 評価 ==
王朗の手紙によると、王朗が以前荊州に従軍していたときに会った鄧子孝・桓元孝という人物の評価として、徳や行いの正しさは老いても衰えることはなかった、とされる。その王朗自身は[[曹丕]](文帝)に対し、許靖を最も策謀に優れた人物と絶賛したという。
 
魏の[[蒋済]]は『万機論』において「許靖は全体として国政を担う人材である。」と称賛し、不当な扱いをした許劭を批判している。[[陳寿]]は許靖の名声や篤実さを肯定しつつも、その行いのすべてが妥当なものであったかどうかという点については、疑問視している。
 
== 三国志演義 ==
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