「ポーランド・マルカ」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
JAITIDO1992 (会話 | 投稿記録)
en:Polish marka19:47,21 August 2013 版を翻訳。 一部加筆。
 
Andee (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
14行目:
| caption2 = 裏面
}}
'''ポーランド・マルカ'''([[ポーランド語]]:''marka polska'',複数形:''marki, marek'',[[略称]]:''mp'')は、[[1917年]]~[[1924年]]の間に、[[ポーランド王国 (1916年-1918年)|ポーランド摂政王国]]及び[[ポーランド第二共和国]]で使用された[[通貨]]である。1ポーランド・マルカ[[紙幣]]は、100''fenigów''(単数形:''fenig'')[[硬貨]]に細分化されていたが、それは[[ドイツマルク]]の制度をまね真似ものである([[ドイツマルク]]の項を参照)
 
== 歴史 ==
[[第一次世界大戦]]中の[[1915年]]にポーランドが[[ロシア帝国]]に敗れると、[[中央同盟国]]はかつての[[ポーランド立憲王国]]の領土全体を占領し、2人の[[総督]]が指名された。1人は[[ヴァイマル共和政|ドイツ]]のハンス・ハートヴィヒ・フォン・ベセラーを[[ワルシャワ]]に置き、もう1人は[[オーストリア=ハンガリー帝国]]のカール・クックを[[ルブリン]]に置いた。国の政治運営は、ドイツ(大半が[[プロイセン]])とオーストリア(大半がポーランド)から派遣された職員の手に委ねられていた。そして、[[ロシア・ルーブル]],[[パピエルマルク]],ドイツ・オストルーブル,オーストリア=ハンガリー・クローネの4つの通貨が流通していた。1915年[[12月9日]]、ドイツの総督だったヴォルフガング・フォン・クライズは、オーストリア側との会議の末、''Polish Loan Bank'' (''Polska Krajowa Kasa Pożyczkowa'')と呼ばれる新銀行を創設し、ドイツマルクと同等の価値を持つ'''ポーランド・マルカ'''という新しい通貨制度の誕生を宣言した。新しい通貨制度の安定性は、[[ドイツ帝国銀行]]が10億ドイツマルクもの資金を用意する事で保証されていた。
 
[[1917年]]になると、新硬貨(1, 5, 10, 20 fenigów)と新紙幣(½, 1, 2, 5, 10, 20, 50, 100, 500, 1000 マルカ)が鋳造され、これまで使用されていた4つの通貨を新通貨に置き換え始めた。全ての紙幣には赤地に[[鷲 (紋章)|白鷲]]の[[ポーランドの国章]]が描かれ、白色であった。[[1918年]][[11月11日]]に第一次世界大戦の[[休戦協定]]が結ばれた時点では、8億8,000万ドイツマルクが既に市場で流通されていた。新しく誕生したポーランド第二共和国の政府はマルカを通貨として保持し、資金運用を続けるために貸付銀行の設立を許可する事を決定した。[[1918年]]中にドイツ製の紙幣は、市場への流通過程において新紙幣に取って代わられた。これらの新紙幣には、ポーランドの歴史上のテーマが特徴付けられていた。10, 500マルカ紙幣には[[ヤドヴィガ (ポーランド女王)|ヤドヴィガ]]女王の[[肖像]]、5, 10, 100, 1000マルカ紙幣には[[タデウシュ・コシチュシュコ]]が描かれた。50マルカの[[銀貨]]も計画されていたが、[[ハイパーインフレ]]のせいで実現されることはなかった。今日では、ただ1つの銀貨のみ、現存している事が分かっている。
ただ1つの銀貨のみ、現存している事が分かっている。
 
しかし、当時のポーランドは123年にもわたる[[ポーランド分割]]と5年続いた第一次世界大戦により、既に国土は荒廃し、その上新たに軍事的な戦闘に突入した事により、国内の経済は一層無力化していった。[[1920年]]には、[[ポーランド・ソビエト戦争]]の最中、コシチュシュコが描かれた½マルカ及びヤドヴィガ女王とコシチュシュコの両方が描かれた5000マルカの新紙幣が使用されるようになった。市場には新たに5億マルカが流通した。しかし数年のうちに[[金融危機]]が深刻化し、[[1922年]]には本格的かつ破壊的な[[インフレーション]]の時代が始まった。この時点で2,070億マルカもの通貨が流通していた。その為、10,000及び50,000マルカの新紙幣を印刷する必要に迫られた。1922年中には、インフレが一層弾みを付けて加速化していき、100,000, 250,000, 500,000, 1,000,000マルカ新紙幣が発行され、翌[[1923年]]になると、500万,1,000万マルカ新紙幣が出回るようになった。
 
[[1924年]]になると、[[大蔵大臣]]でもあったヴァディスワフ・グラブスキが任命され、金融復興政策を打ち出した。ポーランド銀行は、ポーランド中央銀行として再生する事を宣言した。ポーランド・マルカは新たな[[金本位制]]の通貨である[[ズウォティ]]に、1,800,000ポーランド・マルカ=1ズウォティの[[為替レート]]で変換された。この時点で、1[[アメリカ合衆国ドル|米ドル]]に対する為替レートは、5.18ズウォティ(9,324,000ポーランド・マルカ)になっていた。
 
== 米ドルとの為替レート ==