「長岡謙吉」の版間の差分

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[[高知城]]下の浦戸町の医師・今井孝順(孝純、玄泉)の息子として生まれる。孝順は[[坂本龍馬]]の継母・伊予の縁者であった。幼少期は[[河田小龍]]の下で[[蘭学]]に励んだ。その後は[[江戸]]や[[大坂]]に遊学して、医学や文学を学んだ。[[安政]]6年([[1859年]])には家業の医師を継ぐため、[[長崎市|長崎]]で[[二宮敬作]]に医学を学ぶ(後年、二宮の師である[[フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト|シーボルト]]が再来日した際には英語や国際法の教えを受けた)。しかしこのときに、藩から[[キリスト教]]に傾倒したと疑われて帰国を命じられ、処罰として長岡郡鹿児村への蟄居を命じられた。
 
その後に罪を許されたが、やがて脱藩して長崎に赴き、[[坂本龍馬]]の下で海援隊に参加した。龍馬は長岡の才能を高く評価し、海援隊の通信文書の作成など、事務処理のほとんどを長岡に一任していたという{{要出典|date=2012年9月}}。[[慶応]]3年([[1867年]])、夕顔丸に坂本龍馬や[[後藤象二郎]]らと同船し、大政奉還後の龍馬の構想をまとめた「[[船中八策]]」を成文化したとされる。<ref>『朝日日本歴史人物事典』http://kotobank.jp/word/%E9%95%B7%E5%B2%A1%E8%AC%99%E5%90%89』。</ref> また、長崎における[[キリシタン]]問題を論考してまとめ上げた『閑愁録』を出版している。
 
同年、龍馬が暗殺されると、海援隊の2代目隊長に選ばれた。[[戊辰戦争]]では、海援隊を率いて、瀬戸内海の[[小豆島]]や[[塩飽諸島]]などを占領した。[[明治維新]]後は[[三河県 (日本)|三河県]]知事、[[大蔵省]]、[[工部省]]などに勤務したが、明治5年(1872年)に東京にて若くして死去した。享年39。墓は増上寺の塔頭の一つ、安養院にある。