「脱解尼師今」の版間の差分

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『[[三国史記]]』新羅本紀・脱解尼師今紀は、誕生及び即位については以下のように記している。
 
[[倭国]]の東北一千里のところにある多婆那国<ref>上垣外憲一は、神話である以上、他系統の伝承が混ざっているだろうと述べた上で、脱解は丹波国で玉作りをしていた王で、交易ルート(紀元[[1世紀]]から朝鮮半島南部と日本列島沿岸部の交易は盛んで、朝鮮半島からは大量の鉄が、日本列島からは大量のガラス製や碧玉製の玉と奴隷が輸出されていた)を経て新羅にたどり着いたというのが脱解神話の骨子だと推測るとした。上垣外、神話の詳細な虚実脱解の出自を倭国措く断定することは出来ないがしても、昔氏は倭国と交易していた氏族だと推測できるとした(以上、上垣外2003 p.73より)73)。<!--井上秀雄は、新羅人の地理的知識の増加に伴って『[[三国志]]』に見える西域の小国の名を借りたか西域の楽神の乾達婆信仰に由来する国名に改めたものであり、倭国の東北とする文言も後世の挿入だと述べている(→井上訳注1980 p.35)。-->なお『[[三国遺事]]』では脱解の出身地は多婆那国ではなく龍城国とされる。</ref>で、その王が女人国(不明)の王女を妻に迎えて王妃とし、妊娠してから7年の後に大きな卵を生んだ。王は王妃に向かって、人でありながら卵を生むというのは不吉であり、卵を捨て去るように言った。しかし王妃は卵を捨てることに忍びず、卵を絹に包んで宝物と一緒に箱に入れて海に流した。<ref>「初其國王 娶女國王女爲妻 有娠七年 乃生大卵 王曰 人而生卵不祥也 宜棄之 其女不忍 以帛裹卵並寶物置於(木へんに賣)中 浮於海」</ref>やがて箱は[[伽耶#駕洛国(金官伽耶)|金官国]]に流れ着いたが、その国の人々は怪しんで箱を引き上げようとはしなかった。箱はさらに流れて、[[辰韓]]の阿珍浦([[慶尚北道]][[慶州市]])の浜辺に打ち上げられた。そこで老婆の手で箱が開けられ、中から一人の男の子が出てきた。このとき、新羅の[[赫居世居西干]]の39年([[紀元前19年]])であったという。老婆がその男の子を育てると、成長するにしたがって風格が優れ、知識が人並みならぬものになった。長じて、第2代南解次次雄5年([[8年]])に南解次次雄の娘を娶り、[[10年]]には[[新羅#官位制度|大輔]]の位について軍事・国政を委任された。南解次次雄が死去したときに[[儒理尼師今]]に王位を譲られかけたが、「賢者は歯の数が多い」という当時の風説を元に餅を噛んで歯型の数を比べ、儒理尼師今に王位を継がせた。儒理尼師今が57年10月に死去したときには、王(儒理尼師今)の遺命に従って脱解が王位についた。
 
*昔脱解が船で渡来した人物であることを示す挿話などと併せて、出生地を日本列島内に所在すると見る向きが多く、[[丹波国]]、[[但馬国]]、[[肥後国]][[玉名郡]]などに比定する説がある。
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== 姓名の由来 ==
『三国遺事』によるとはじめ姓名がわからなかったので、箱が流れ着いたときに鵲([[カササギ]])がそばにいたことから鵲の字を略して「昔」を姓とし、箱を開いて生まれ出てきたことから「脱解」を名とした、という<ref>むろん『三国遺事』の説は文字表記か付会したもので、「脱解」は新羅語で太陽(または日の出)を意味し、もともと太陽神の神話だったことを表している。[[西川権]]は「昔」は日本語の「前」(さき)の当て字として、天之日矛が土着したとされる但馬の「前津耳」(さきつみみ)や[[延喜式内社]]但馬国[[養父郡]][[佐伎都比古阿流知命神社]]と関係し、三宅連氏の祖先で前(さき)を氏とした一族とみている。脱解も日本語のタケ(武・建)であるという。また新羅において漢風の一字姓は[[6世紀]]から使用されたので当初から昔氏という姓があったわけではないが、[[大林太良]]は脱解の出現には神話の[[三機能体系]]のうち第三機能を表しているとし、[[濱名極光]]は昔と赤が類音であることから赤または銅をシンボルカラー、龍をトーテムとする部族だったかと推定している。</ref>。
 
== 脚注 ==