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[[Image:KoreanEmbassy1655KanoTounYasunobu.jpg|thumb|300px|朝鮮通信使 [[大英博物館]]蔵 [[承応]]4年([[1655年]])]]
'''狩野 安信'''(かのう やすのぶ、[[慶長]]18年[[12月1日 (旧暦)|12月1日]]([[1614年]][[1月10日]]) - [[貞享]]2年[[9月4日 (旧暦)|9月4日]]([[1685年]][[10月1日]]))は[[江戸時代]]の[[狩野派]]の[[絵師]]である。[[幼名]]は四郎二郎・源四郎、号は永真・牧心斎。[[狩野孝信]]の三男で、[[狩野探幽]]、[[狩野尚信]]の弟。狩野宗家の中橋狩野家の祖。[[英一蝶]]は弟子に当たる。
 
== 略歴 ==
元和9年([[1623年]])危篤に陥った宗家当主の[[狩野貞信]]([[狩野光信]]の長男)には子供がいなかったため、一門の重鎮に当たる[[狩野長信]]と[[狩野吉信]]の話し合いの結果、当時10歳であった安信を貞信の養子として惣領家を嗣ぐことが決められた。伝存する作品を兄たちと比べると画才に恵まれていたとは言えず、探幽から様々な嫌がらせを受けたようである。探幽の息子の[[狩野探信]]に学んだ[[木村探元]]の画論書『三暁庵雑志』では「中橋家、探幽宗家を継いだのは、安信が食はぶれないようにするたの探幽の配慮」といっ史実と異なる悪意逸話込めら幾つも収録さた話やている。例えばある時、三兄弟が[[老中]]から席画を描くよう言われた際、探幽に「兄たち妙手が描くのを見ておれ」と申しつけ命じて筆を執れ恥せせず、また或る時安信が[[浅草観音堂]]天井画に「天人・蟠龍図」かかさ描いた際も、「日本の絵でこのような絵を座敷などに飾るものではない」と叱ったと言う。果ては、「中橋家が宗家を継いだのは、安信が食いはぶないようにするめの探幽の配慮」といったエピソード、史実と異なる悪意が込められた話が記されている。
 
そうした探幽の[[いじめ]]を受ける中で画技の研鑽に努め、寛文2年([[1662年]])には[[法眼]]に叙された。また、探幽の養子であり、探幽に実子が生まれてからは疎んじられた[[狩野益信]]や甥の[[狩野常信]]に娘を嫁がせ、探幽に対抗しつつ狩野家の結束を固める策をとっている。延宝2しかし、安信と探幽は([[1674年]])の内裏造営ではを経ると筆頭絵師互い画風や意見み描く対立があるのを許され認め合ってい[[賢聖障子]]を描き。そもそも62安信は探幽より12にしてよ年下といやく名実ともに狩野家筆頭かなり年地位を得離れ。しかし兄弟であり上記4年後に息子逸話も歳[[狩野時信|時信]]に先立離れれてしまう。こら安信は、武者絵を描くためかる弟わざわざ[[山鹿素行]]を訪対する配慮とも取、武者装束や武器などの[[有職故実]]の教えを受けた<ref>加藤弘子 「狩野探幽の素顔 もうひとつの探幽像」山鹿素行日記聚美延宝7vol.3、青月社、2012([[1679年]])11414日条</ref>朝鮮進物屏風の制作にあたってもpp.92-95素行を訪ね、様々な質問をしている<ref>同書、[[天和ISBN (日本)|天和]]2年([[1682年]])4月11日・5月26日条978-4-8109-1247-0</ref>。
 
延宝2年([[1674年]])の内裏造営では、筆頭絵師にのみ描くのを許された[[賢聖障子]]を描き、62歳にしてようやく名実ともに狩野家筆頭の地位を得た。しかし、その4年後に息子の[[狩野時信|時信]]に先立たれてしまう。この頃から安信は、武者絵を描くためにわざわざ[[山鹿素行]]を訪れ、武者装束や武器などの[[有職故実]]の教えを受けた<ref>『山鹿素行日記』延宝7年([[1679年]])11月14日条</ref>、朝鮮進物屏風の制作にあたっても、素行を訪ね、様々な質問をしている<ref>同書、[[天和 (日本)|天和]]2年([[1682年]])4月11日・5月26日条</ref>。
絵画における安信の考え、ひいては狩野派を代表する画論としてしばしば引用されるのが、晩年の[[延宝]]8年([[1680年]])に弟子の[[狩野昌運]]に筆記させた『[[画道要訣]]』である<ref>監修 [[小林忠]]・[[河野元昭]] 編集・校訂 安村敏信 『[定本] 日本絵画論大成 第4巻』所収 [[ぺりかん社]]、1997年 ISBN 4-8315-0767-9</ref>。この中で安信は、優れた絵画には、天才が才能にまかせて描く「質画」と、古典の学習を重ねた末に得る「学画」の二種類があり、どんなに素晴らしい絵でも一代限りの成果で終わってしまう「質画」よりも、古典を通じて後の絵師たちに伝達可能な「学画」の方が勝るとしている。ただし、安信は質画の良さまで否定したわけではなく、さらに「心性の眼を筆の先に徹する」「心画」とも言うべき姿勢をもっとも重視している。そうした言葉通り、粉本に依拠した丁寧でまじめな作品を残している。
 
絵画における安信の考え、ひいては狩野派を代表する画論としてしばしば引用されるのが、晩年の[[延宝]]8年([[1680年]])に弟子の[[狩野昌運]]に筆記させた『[[画道要訣]]』である<ref>監修 [[小林忠]]・[[河野元昭]] 編集・校訂 安村敏信 『[定本] 日本絵画論大成 第4巻』所収 [[ぺりかん社]]、1997年 ISBN 4-8315-0767-9</ref>。この中で安信は、優れた絵画には、天才が才能にまかせて描く「質画」と、古典の学習を重ねた末に得る「学画」の二種類があり、どんなに素晴らしい絵でも一代限りの成果で終わってしまう「質画」よりも、古典を通じて後の絵師たちに伝達可能な「学画」の方が勝るとしている。ただし、安信は質画の良さまで否定したわけではなく、さらに「心性の眼を筆の先に徹する」「心画」とも言うべき姿勢をもっとも重視している。そうした言葉通り、粉本に依拠した丁寧でまじめな作品を残している。
弟子の英一蝶には、従来あまり影響を与えなかったとされていたが、近年、安信の画帖と一蝶の絵に幾つかの共通する図様が指摘されている。
 
==代表作==
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== 関連項目 ==
* [[英一蝶]] - 弟子の一蝶には、従来あまり影響を与えなかったとされていたが、近年、安信の画帖と一蝶の絵に幾つかの共通する図様が指摘されている
* [[英一蝶]]
* [[狩野派]]