「両税法」の版間の差分

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[[建中 (唐)|建中]]元年([[780年]])、[[徳宗 (唐)|徳宗]]の宰相[[楊炎]]の建議により両税法が施行された。両税法の骨子は以下のようなものである。
#主戸(本籍に住んでいる農民)・客戸の区別無く、資産額に応じて戸等([[主戸客戸制]]を参照)を決定し戸税を徴収、耕地面積に応じて地税を徴収。また、有産の客戸を主戸に編入した。
#6月に納める'''夏税'''(対象は[[絹]]・[[綿]]・[[ムギ|麦]])と十一11月に納める'''冬税'''(対象は[[イネ|稲]]と[[粟]])に分け、それ以外の税を全廃する。
#銭納を原則とする。
#商人に対しても資産に応じて徴収。行商からは30分の1税を徴収、後に10分の1を課税。
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実際の運用に当たっては税を地方官が徴収した後、留県(県の必要経費)・留州・留使(節度使)をそれぞれが取った後に中央へ残りの額が送られる。
 
租庸調制では租の納期を12月末、庸調の納期を9月末としていたが、これは華北における粟(租)、蚕・大麻(庸調)の収穫時期に合わせたものであった。その後の麦作・豆作の盛行や寒冷化の進行、江南の農業開発に伴う農業生産構造の変化、安史の乱による華北農作地帯の壊滅によって江南からの租税への依存が高くなり、江南における麦絹(夏税)、稲粟苧麻(冬税)の収穫時期に合わせた2に変更された。もっとも、この納税時期の変更は豆や大麻の収穫時期の遅い華北には不利である為、2の原則にも関わらず実際の運営では地域によっては3回(恐らく、旧庸調の9月末)に分けて納付される事も認められていた(『旧唐書』食貨志上・『新唐書』楊炎伝)<!--古賀、2012年、P253-288--> 。
 
3と4はそれぞれ商業活動の活発化を示すものである。また、安史の乱をきっかけとした塩の専売制強化をきっかけに農民生活に貨幣が必要になった事や財政難を貨幣発行で賄おうとした政策との関わりも指摘されている<!--古賀、2012年、P294-314--> 。また5は一面には歳入の範囲内での健全な財政を保てなくなった証左であるが、別の一面からは節度使が無軌道に税を徴収することを戒め、政府が管理できる範囲内でのみ予算を立てさせると言う意味合いがある。
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[[律令制]]の根幹であった均田制を自ら捨てたこと(ただし形骸のみはその後も残った)は、別の見方からすれば大土地所有を公認したことになる。これ以降の唐では土地の兼併が更に進み、[[荘園]]は巨大化する。
 
また銭納を原則としたことで農民に貨幣を持つことを義務付けることになり、商業活動を更に活発にする。だが、その反面において全国の農民が納税用の貨幣を持つために一斉に作物を換金する必要性に迫られて物価の下落や悪徳商人による買い叩きなどが生じた。そこで[[809年]]には、例外的措置として一定金額を納めた者については公定価格に基づく物納との折納を容認し、[[821年]]にはこれが拡大された。更に[[五代十国時代]]下では(貨幣制度が混乱した事もあって)絹帛と貨幣の事実上の2本立てとなり、ついで[[北宋]]の[[1000年]]には絹帛も正税に加えて、これ以後は銭納原則は事実上放棄されて納税金額を元にして算出される絹帛による物納制へと変わっていった。更に[[明]]では積極的な[[重農主義]]政策を背景に穀物による納税を基本とした。
 
その後の[[五代十国時代]]・[[北宋]]・[[元 (王朝)|元]]・[[明]]と両税法は受け継がれていくが、明代中期になると付加税が増え、不均衡が過大となり、宰相[[張居正]]により[[一条鞭法]]が施行され、両税法は廃止された。