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'''第24歩兵師団'''(だい24ほへいしだん、U.S.Army 24th Infantry Division)とは[[アメリカ陸軍]]の[[歩兵]]師団であり、[[2006年]]10月1日に[[カンザス州]]フォートライリーで解散した。[[第2次世界大戦]]中の1921年2月25日に、ハワイ師団から編制され、[[ニューギニア]]で戦いその後[[フィリピン]]の[[レイテ]][[]]などのに上陸し[[太平洋日本軍]]各地を転た。第2次大戦後は、[[日本]]の占領に参加した。その後、[[朝鮮戦争]]では最前線に配備された。朝鮮戦争後はの最初の18か月間を戦い、[[アメリカ北朝鮮]]と[[中国]]からの攻撃により1万人以上の死傷者が出た。そのため[[予備役]]部隊の援護を受け撤退し、主な任務を戦闘からパトロールに移した。朝鮮戦争後の冷戦期は[[ヨーロッパ]]などや[[アメリカ]]に配されたが、[[湾岸戦争]]に参加しまでは直接的な戦闘は少なかった。師団は、[[19701990]]4月15日にの冷戦終結後の米軍の軍縮の旦は環として解散されたが、[[1975年]]9月21日に再び編制された。その後[[1996年師団]]2月15日に再び解散されるが、[[1999年]]10月17日3回目の編制が行わた。そして、[[2006年]]10月1日解散するまで陸軍[[カンザス]]フォートライリーで解散しの訓練を担った。
 
==ハワイ師団==
第24歩兵師団は、[[1921年]]3月1日に[[ハワイ]]の[[オアフ島]]で編制されたハワイ師団を起源とする。師団章はハワイの象徴である[[タロイモ]]の葉をベースとしている。ハワイ師団には、第21歩兵旅団と第22歩兵旅団が割り当てられた。2個とも元は第11歩兵師団の旅団であった。[[1941年]]の8月から9月にかけて改組され、1941年10月1日に第24歩兵師団となった。第24歩兵師団はハワイ師団当時の師団章を引き継いだ。第24歩兵師団は第19歩兵連隊、第21歩兵連隊、ハワイ州兵第299歩兵連隊の3個連隊を基幹とした。その他、第13野戦砲兵大隊、第52野戦砲兵大隊、第63野戦砲兵大隊、第11野戦砲兵大隊、第24通信中隊、第724兵器中隊、第24需品中隊、第24偵察大隊、第3工兵大隊、第24医療大隊、第24軍事情報支隊から編制された。
 
==第2次世界大戦==
===真珠湾===
第24歩兵師団は、[[第2次世界大戦]]中、一貫して戦闘に参加し続けた。[[1941年]]12月7日に[[ハワイ]]、[[オアフ島]]のスコフィールドバラックの師団本部が[[日本軍]]により攻撃され死傷者を出した。これは、[[真珠湾攻撃]]の一環であった。師団は、それから[[1942年]]までオアフ島北部の沿岸防衛の任務にあたった。1942年7月まで、第299歩兵連隊は第298歩兵連隊に置き換えられていた。1年後、第298歩兵連隊は、ハワイ州兵の第34歩兵連隊に置き換えられた。第34歩兵連隊は、終戦まで第24歩兵師団の隷下にあった。
==ニューギニア==
[[1943年]]5月、第24歩兵師団は、[[オーストラリア]]に移動した。1943年9月19日に、オーストラリア東海岸のロックパンプトンに移動を完了した。そこで集中的な戦闘訓練を展開した。 訓練の後、師団は[[1944年]]1月31日にオランダ領ニューギニア(現[[インドネシア]]バプア州ジャヤプラ)に上陸した。その後、4月22日にThanhmerah湾に上陸し、24日に豪雨にも関わらず[[ホーランディア]]飛行場を制圧した。その後、ホーランディ飛行場に着陸した第41歩兵師団第34歩兵連隊を支援し、ビアクへ移動した。第34歩兵連隊は第298歩兵連隊に代わり第24歩兵師団に組み入れられた。第24歩兵師団と第41歩兵師団は4万人の日本軍と戦った。孤立した[[日本軍]]からの猛烈な抵抗にも関わらず第24歩兵師団は地域を急速に制圧した。2か月後、第24歩兵師団は[[ニューギニア]]を制圧した。
===レイテ===
[[ホーランディア]]の占領後、第24歩兵師団は[[フィリピン]]への侵攻に備えて第6軍に組み込まれた。[[1944年]]10月20日に、師団は第5軍団の[[第1機甲師団 (アメリカ軍)|第1機甲師団]]とともに、レイテを強襲した。 [[日本軍]]は、10月26日にレイテ海戦敗北を受け、第6軍に猛烈な反撃を開始した。第24歩兵師団は、激しい戦闘の中、1944年11月12日にレイテ谷を突破し、Jaroに進軍し制圧した。第24歩兵師団第19歩兵連隊は、1944年12月15日に[[ルソン島]]奪還の足掛かりとして[[ミンドロ島]]のサンノゼ地区に上陸した。そこでルソン島奪還の足掛かりとなる飛行場や拠点を確保した。それ以外の第24歩兵師団の部隊は[[マニラ]]のナスグブで第11空挺師団の空挺降下を支援した。
===ルソン島===
第24歩兵師団は、日本軍[[第14軍]]から[[ルソン島]]を奪還するために第6軍20万人の兵士とともにルソン島に上陸した。第34歩兵連隊は[[1945年]]1月29日にサンアントニオ地区のサンバレスに上陸したが、多数の死傷者に苦しんだ。1945年2月26日に第34歩兵連隊第3大隊は[[コレヒドール]]に上陸し、日本軍と戦闘した。師団の他の部隊は、レイテ島の他の部分を制圧し、2月19日に[[ミンドロ島]]サブレイヤンに上陸した。一連の作戦行動は3月18日にバシランへの攻撃を以て終了した。師団は、1945年4月17日に[[ミンダナオ]]に上陸し4月27日にダバオに突入し、5月3日にリビー飛行場を制圧し5月13日にDigos島を制圧した。作戦は6月30日に終了したが、師団は8月以降も日本軍と戦い続けた。そのため、第24歩兵師団は、8月に日本が[[無条件降伏]]するまでパトロールを続けた。1945年10月15日に師団は日本占領のため[[ミンダナオ]]を後にした。
===勲章===
第2次大戦中に、第24歩兵師団からジェームズ・H・ダイヤモンド、チャールズ・E・モワー、ハロルド・H・ムーン・ジュニア、フランシス・B・ワイの4名が[[名誉勲章]]を受章した。そして、第24歩兵師団には合わせて15個の[[陸軍殊勲十字章]]、625個の[[銀星章]]、38個の兵士勲章、2197個の青銅星章、50個の航空勲章が送られた。また、師団は作戦への功績に対し8個の殊勲部隊章を受けた。
==第2次世界大戦後==
===日本占領===
第2次世界大戦終戦後、第24歩兵師団は[[日本]]に残留し、日本を占領していた4個師団の内の1個として、[[1945年]]から[[1950年]]までの間、[[九州]]を占領した。日本を占領していた他の師団は、[[第8軍 (アメリカ軍)|第8軍]]に所属する[[第1騎兵師団 (アメリカ軍)|第1騎兵師団]]、[[第7歩兵師団 (アメリカ軍)|第7歩兵師団]]、[[第25歩兵師団 (アメリカ軍)|第25歩兵師団]]である。この間に[[アメリカ軍]]は縮小した。第2次大戦終戦時、89個の師団があったが、1950年には第24歩兵師団を含めて僅か10個師団となっていた。第25歩兵師団は、第19歩兵連隊、第21歩兵連隊、第34歩兵連隊を維持したが、軍事費の削減などにより縮小された。
==朝鮮戦争==
===勃発===
[[1950年]]6月25日に、[[北朝鮮]][[人民軍]]の10個師団が、[[韓国]]に攻撃を開始した。北朝鮮は、韓国全体を制圧する準備をし、[[韓国軍]]を圧倒した。[[国連]]は韓国の制服を防ぐために介入を決め、当時の[[アメリカ合衆国大統領]][[ハリー・S・トルーマン]]は韓国に地上部隊を送り込んだ。第24歩兵師団は、韓国にもっとも近い地点に位置していたため[[アメリカ軍]]の部隊として最初に送り込まれた。第24歩兵師団の最初の任務は、他のアメリカ軍部隊が到達するまでに出来る限り北朝鮮軍の前進を遅くすることだった。
===タスクフォース・スミス===
1950年6月30日、第21歩兵連隊第1大隊の406人の兵士が、第24歩兵師団の134人の砲兵大隊の支援を受けて韓国に到達した。この部隊は、チャールズ・スミス[[中佐]]が指揮をとったため「タスクフォース・スミス」と呼ばれた。7月4日に部隊は北[[烏山]]に防衛陣地を設置し、北朝鮮軍の前進を防ぐための行動を開始した。翌日、部隊は北朝鮮軍の第105機甲師団を発見した。部隊は交戦したが、部隊の武器はどれも旧式のもので北朝鮮の[[T-34]]戦車などに歯が立たず、敗走した。数時間のうちに[[アメリカ]]と北朝鮮の最初の戦いは終了し、タスクフォース・スミスは20人が戦死し、130人が負傷した。アメリカ軍兵士の内、数十人は[[捕虜]]となり、後にアメリカ軍が奪還した時、数名の捕虜が処刑されていた。近年公開された機密文書によると、捕虜は平壌に連行された後、3か月後に処刑されていたことが分かった。
タスクフォース・スミスの兵士の約30%が[[烏山]]の戦いで死傷した。しかし、タスクフォース・スミスは7時間に亘り北朝鮮軍の前進を止めることに成功した。
===釜山周辺===
第24歩兵師団は、[[釜山]]の港から韓国に入り、その後、[[第8軍 (アメリカ軍)|第8軍]]の[[第1騎兵師団 (アメリカ軍)|第1騎兵師団]]、[[第25歩兵師団 (アメリカ軍)|第25歩兵師団]]と続いた。その後に、第8軍[[第1軍団 (アメリカ軍)|第1軍団]]の指揮下に入った。タスクフォース・スミスの敗北から1か月後に、第24歩兵師団は[[北朝鮮]]の圧倒的な数量・物量により南側に押された。第19歩兵連隊と第34歩兵連隊は7月13日と16日に、北朝鮮の第3歩兵師団、第4歩兵師団と交戦し、3401人が負傷し、650人が死亡した。翌日、北朝鮮の師団が、第24歩兵師団の本部と攻撃した。その戦いでは、3933人が戦い、922人が負傷し、228人が戦死した。その後、師団長ウィリアム・F・ディーン[[少将]]を含め数名の兵士が[[名誉勲章]]を受章した。8月1日に第24歩兵師団第19歩兵連隊が北朝鮮軍と交戦し90人が戦死した。しかしながら、第24歩兵師団は[[釜山]]に[[国連軍]]が到達するまでの2日間、北朝鮮軍の進軍を妨害した。その後、第24歩兵師団は、[[第1騎兵師団 (アメリカ軍)|第1騎兵師団]]の背後に後退した。師団は、北朝鮮の第3歩兵師団、第4歩兵師団を戦った17日間だけで3.600人以上の死傷者を出した。
8月4日に、釜山の[[ナクトン川]]北方の丘の上に拠点を設立した。その後、第24歩兵師団を含む[[第8軍 (アメリカ軍)|第8軍]]は周囲の北朝鮮軍を追い詰めた。国連軍がこれを支援し、遂に北朝鮮軍は第24歩兵師団への攻撃を停止した。ナクトン川に沿い、第24歩兵師団の北には[[第25歩兵師団 (アメリカ軍)|第25歩兵師団]]、南には[[第1騎兵師団 (アメリカ軍)|第1騎兵師団]]と[[韓国軍]]が展開した。第24歩兵師団は新たに到着した[[第2歩兵師団 (アメリカ軍)|第2歩兵師団]]によって増強された。第24歩兵師団は、南西から国連軍を攻撃しようとした北朝鮮軍の第6歩兵師団を防いだ。8月8日に北朝鮮軍の第4歩兵師団は、ナクトン川を渡り、釜山周辺に展開しようとした。10日間による攻撃の末、第24歩兵師団は第4歩兵師団を撃退した。1950年8月後半には、第34歩兵連隊は解散し、24日以内に第5連隊戦闘団に改組された。
第34歩兵連隊に所属した兵士の内、一部は第19歩兵連隊と第21歩兵連隊に参加した。師団が韓国を撤退するまで、第5連隊戦闘団は第24歩兵師団の指揮を受けた。8月23日、第24歩兵師団は、第2歩兵師団と合流した。その後、8月31日と9月19日に大規模な戦闘があったが、第2歩兵師団、第24歩兵師団、第25歩兵師団、第1騎兵師団は北朝鮮軍を打ち破った。
それと同時に第10軍団は、第7歩兵師団と[[第1海兵師団 (アメリカ軍)|第1海兵師団]]を以て、[[仁川]]に上陸し、北朝鮮軍の背後からの攻撃を開始した。攻撃により北朝鮮軍は混乱し、9月19日に第8軍が陣取る釜山周辺まで押された。第24歩兵師団は、ソウルに続いてSongjuに侵攻した。陸軍は10月を通して、韓国の西海岸沿いに侵攻した。10月中旬までに、北朝鮮軍は組織的戦闘能力をほぼ喪失し、ハリー・トルーマン大統領は朝鮮戦争を終結されるよう[[ダグラス・マッカーサー]]元帥に命じた。第24歩兵師団は、韓国第1歩兵師団とともに、第8軍の左翼、韓国の西海岸に沿って北上していた。その後、第24歩兵師団は[[清州]]北部に移動した。11月1日に、[[鴨緑江]]に到達し、第8軍第10軍団とともに北朝鮮を完全に征服しようと展開した。
===中国の介入===
11月25日に[[中国]]は北朝鮮の防衛戦争に介入した。[[人民解放軍]]は26万個の部隊を北朝鮮に送り込み、これにより第8軍は混乱した。[[中国軍]]はアメリカの第2歩兵師団と韓国の第7歩兵師団を包囲し、圧倒的な数量で両軍を撃破した。その後、ソウルを制圧した。第24歩兵師団は、[[朝鮮半島]]の西海岸で、中国の第50軍集団、第66軍集団と遭遇した。第8軍は多数の死傷者を出し、[[38度線]]に後退した。[[1951年]]1月1日、50万個の中国軍部隊が38度線の第8軍を攻撃した。第24歩兵師団は、それにより大きな損害を出し、第2歩兵師団、第25歩兵師団と交代し、第9軍団の指揮下に入った。中国軍は最終的に38度線付近で膠着状態に陥った。
===膠着状態===
マシュー・B・リッジウェイ[[大将]]は第1軍団、第9軍団、第10軍団を指揮し、中国軍への攻撃を開始した。第24歩兵師団は、第9軍団の所属として砥平里を制圧するために、半島の中心に向かい進軍した。第9軍団は激しい抵抗に遭い、2月まで釘付けにされた。しかし、1951年2月から3月の作戦で第24歩兵師団は[[漢江]]北部の中国軍を圧倒した。この作戦は、3月の[[ソウル]]奪還の足掛かりとなった。これ以後、再び38度線付近で硬直状態に陥った。
4月下旬に、中国軍は反撃を開始した。4月24日、第24歩兵師団と第25歩兵師団は撤退しつつ、第1海兵師団と、[[イギリス]]第27旅団と合流し、第13軍の指揮に入った。9月に国連軍は第24歩兵師団とともに、[[華川郡]]北部で反撃を開始した。11月に中国軍は再び反撃しようとしたが成功しなかった。このあたりから、和平交渉が開始された。[[1952年]]1月、第24歩兵師団は18か月の戦いの末、1万人以上の死傷者を出し、[[韓国]]から撤退した。そして、再構築するために[[日本]]に帰隊した。第34歩兵連隊が再編成され、韓国には代わりに[[カリフォルニア州]]兵第40歩兵師団が投入された。1953年7月、第24歩兵師団は戦争収容所の捕虜を警備するために韓国に戻った。終戦、2週間前のことである。
===勲章と死傷者===
[[朝鮮戦争]]中、第24歩兵師団の10人の兵士が[[名誉勲章]]を受章した。ウィリアム・F・ディーン師団長、ジョージ・D・リビー、メルビン・O・ハンドリッチ、ミッチェル・R・クラウド・ジュニア、カール・H・ドッド、ネルソン・V・バリッティン、レイ・E・デューク、スタンリー・T・アダムス、マック・A・ジョーダン、ウッドロー・W・ケービー。ケービーは、彼の死後26年後の[[2008年]]3月3日に死後追贈された。第24歩兵師団は朝鮮戦争中、7,935人が負傷し、3735人が戦死した。休戦後の[[1957年]]10月まで38度線を警備するために韓国に残留した。第24歩兵師団は、その後、日本に戻った。
==冷戦==
===ドイツ===
[[1958年]]7月1日、第24歩兵師団は、第11空挺師団と交代で、[[ドイツ]]の[[アウグスブルク]]に移動した。数か月後、第24歩兵師団には2個の空挺大隊が組み込まれた。第503歩兵連隊第1空挺大隊は[[1959年]]1月7日に[[第82空挺師団 (アメリカ軍)|第82空挺師団]]から移動した。第187歩兵連隊第1大隊は1959年2月7日に同じく第82空挺師団から移った。
===レバノン===
[[レバノン]]での[[クーデター]]のため7月19日に第24歩兵師団第187歩兵連隊第1空挺大隊は、[[ベイルート]]に派遣された。大隊は、市内の警備を担当した。部隊は、10月下旬まで残留し、レバノン軍の訓練を行った。[[レバノン]]政府は政治的解決を行い部隊は帰還した。第24歩兵師団は第187歩兵連隊第1空挺大隊の兵士1名を[[スナイパー]]の攻撃により失った。
==解散と2回目の編制==
===改編と解散===
[[1961年]]8月中旬、[[ベルリンの壁]]建設後、第7軍はベルリン旅団を強化するために[[西ドイツ]]に第24歩兵師団を送り込んだ。[[1963年]]1月、第24歩兵師団は3個旅団を基幹とする機械化歩兵師団に改組された。第85歩師団第169歩兵旅団は第24歩兵師団第1旅団となった。同じく第85歩兵師団第170歩兵旅団は第24歩兵師団第2旅団となった。第95歩兵師団第190歩兵旅団は第24歩兵師団第3旅団となった。その後、第24歩兵師団は第1旅団と第2旅団が[[カンザス州]]フォートカンザスに移り、第3旅団は[[1968年]]9月まで[[ドイツ]]の[[アウグスブルク]]と[[ミュンヘン]]に残った。[[アメリカ軍]]が[[ベトナム]]から撤退した後、縮小し、[[1970年]]4月15日に解散した。
===2回目の編制===
[[1975年]]9月、[[ジョージア州]]フォートスチュワートで第24歩兵師団は再び編制された。このうち、第3旅団は[[ジョージア州]]兵第48歩兵旅団となった。[[1979年]]に再び機械化歩兵師団に改組された。[[M1エイブラムス]]戦車、M2ブラッドレー戦闘車を配備した。その後、15年間、[[アメリカ陸軍]]の重要な機械化歩兵部隊として活躍した。
==湾岸戦争==
===砂漠の盾===
[[1990年]]、国連が[[クウェート]]に介入した際、第24歩兵師団は、[[南西アジア]]に配備された最初の部隊をなった。第24歩兵師団は、8月17日にサウジアラビアに到達した。[[ジョージア州]]兵第48機械化歩兵旅団は参加しなかった。これは、陸軍の上層部が常備役だけで十分と判断したためだった。第24歩兵師団は、[[サウジアラビア]]でジョージア州兵第48機械化旅団を第197機械化歩兵旅団に交換した。第24歩兵師団は、重機甲師団として[[第18空挺軍団 (アメリカ軍)|第18空挺軍団]]の指揮下に入った。第24歩兵師団は、M1A1エイブラムス戦車を含み[[砂漠の盾作戦]]に参加した。その後、第24歩兵師団は、[[砂漠の嵐作戦]]を開始するまでサウジアラビア防衛を続けた。
===砂漠の嵐===
[[1991年]]2月24日に[[砂漠の嵐作戦]]が開始されると第24歩兵師団は第3機甲騎兵連隊とともに、[[ユーフラテス川]]渓谷で[[イラク軍]]を阻止するために攻撃した。この時、第24歩兵師団は、25,000人以上の兵士と、7,800両以上の車両を抱えていた。2月26日に、第24歩兵師団は、Jabbah とTallilのイラク軍の飛行場とを制圧した。飛行場では、[[イラク]]の第37歩兵師団、第49歩兵師団、イラク共和国親衛隊第6ネブカドネザル機械化旅団からの抵抗に遭遇した。戦争中、もっとも激しい戦闘だったにも関わらず、第24歩兵師団は、イラク軍を撃退し飛行場を守った。第24歩兵師団は、その後第7軍団と東に移動し、イラクの治安維持に従事した。
イラク軍が降伏し湾岸戦争が終結した後、[[国連]]は[[アメリカ]]が[[イラク]]から撤退する事を義務付けた。2月28日の停戦の時、第24歩兵師団は260マイルを移動し、360両の車両、300門の大砲、1,200両のトラック、25機の航空機、19基のミサイル、500以上の研究施設を破壊した。師団は、36人が負傷、5人が死亡したが、5,000人以上のイラク人を捕虜にした。
==2度目の解散==
===帰国===
[[1991年]]春にアメリカに帰国し、第197歩兵旅団を[[ジョージア州]]フォートベニングで編成された第3旅団と交換した。1994年秋にイラクは再びクウェートを脅かしたことから、2個旅団が再び[[南西アジア]]に向かった。
===2度目の解散===
[[1996年]]2月15日に、第24歩兵師団は解散し、一部の部隊を[[第3歩兵師団 (アメリカ軍)|第3歩兵師団]]に移した。
==3度目の編制と解散==
===3度目編制===
[[冷戦]]をきっかけに、[[アメリカ軍]]は、常備役の訓練のための部隊の編制を検討した。このため第7歩兵師団と第24歩兵師団が[[州兵]]の訓練を担当するために編制された。[[1999年]]6月5日、第24歩兵師団は、[[カンザス州]]フォートライリーで編制された。[[1999年]]から[[2006年]]まで、第24歩兵師団は、本部と[[ノースカロライナ州]]兵第30重旅団戦闘団、[[メーン州]]兵第218重旅団戦闘団、[[サウスカロライナ州]]兵第48歩兵旅団戦闘団から編制されていた。師団本部は戦時中の警備部隊として編制され、3個旅団は別々に展開した。
===3度目の解散===
[[2006年]]8月1日、第24歩兵師団はフォートライリーで解散した。師団の全ての旗と部隊章は[[ジョージア州]]フォートベニングの国立歩兵博物館に展示されている。第24歩兵師団は、[[アメリカ軍]]の中で3番目に歴史の長い[[師団]]である。
 
 
{{アメリカ陸軍2}}
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