「サミュエル・ロビンス・ブラウン」の版間の差分

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同年、日本語教師として[[矢野隆山]]を雇ったが、聖書和訳のためには能力不足と考え、キャロライン・アドリアンスに日本語教師にした。後に、矢野は[[ジェームス・バラ]]の日本語教師になり、最初のプロテスタント信者になった。
 
ブラウンは領事を通して、英語通訳養成のために、日本人青年のクラスを担当してほしいとの依頼を受けた。幕府が校舎を建てて、生徒の寄宿費用を支出して、毎日3時間ブラウンが英語を指導することになり、1862年に横浜英学所として運上所前の官舎で開校された。1862年9月にはアーネスト・サトウがブラウンを成仏寺に訪れている
 
1863年5月30日米国公使の命令により成仏寺を立ち退いて一時ヘボンの家に滞在した。後に、ブラウン一家は借家を月30ドルで借りて、聖書翻訳を続けた。1867年5月に自宅が火災で焼失したので、ブラウンは一時アメリカに帰国した。