「李元翼」の版間の差分

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====官吏生活====
[[File:Letter of Yi Won-ik.jpg|thumb|left|140px|李元翼直筆簡札]]
1569年(宣祖2年)文科に合格して翌年[[承文院]]正字となった。この頃はむやみに人に会う事はせず、公務以外は外に出なかったため彼を知る者はいなかったが、[[李珥]]、[[柳成龍]]と知り合う。
[[File:Ohri Yi Won-ik of 1580.jpg|thumb|right|130px]]
1569年(宣祖2年)文科に合格して翌年[[承文院]]正字となった。この頃はむやみに人に会う事はせず、公務以外は外に出なかったため彼を知る者はいなかったが、[[李珥]]、[[柳成龍]]と知り合う。
 
1573年(宣祖6年)[[成均館]]典籍に異動し聖節賀正官になり、[[明]]への使節に従って明に使した。翌年、[[礼曹]]佐郎に選抜され、[[黄海道]]都事、[[軍器寺]]判官を歴任した。また[[黄海道]]都事の頃、黄海道観察使であった李珥の下で忠実に働いたことで、1576年(宣祖9年)に李珥の推薦で[[司諫院]]正言となる。
 
 
1598年(宣祖31年)、[[稷山の戦い]]で日本軍を撃退したと評価した李氏朝鮮は、明軍の経理[[楊鎬]]の功績を本国へ知らせる陳奏辨誣使を派遣しようとした。しかし、同じ明の主事の[[丁応泰]]が楊鎬の不正を讒訴する事件が起きており、臨機応変を要求される使者の人選に[[領議政]][[柳成龍]]をあてる案が浮上した。しかし、これは李氏朝鮮内の派閥抗争であり、[[北人派]]である前領議政の[[李山海]]らが敵対派閥を国政から排除するため陰謀であった。この事態に李元翼は自らを使者とすることを申し出て、[[柳成龍]]の排撃を防いだ。1600年に[[左議政]]と都体察使に任じられ、1604年(宣祖37年)扈聖功臣二等に列せられ完平府院君となる。一方門下生である[[許穆]]に孫娘を与えた。また[[壬辰倭乱]]の頃から、[[李舜臣]]を評価し、[[李舜臣]]が[[柳成龍]]を批判する際にも、唯一支持した。
[[File:Heo Mok 03.gif|thumb|left|140px|孫娘婿である[[許穆]]]]
 
[[File:Heo Mok 03.gif|thumb|left|140px|孫娘婿である[[許穆]]]]
[[File:Kim Yuk 01.jpg|thumb|right|150px|[[金堉]]]]
 
====光海君時代====
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