「イングランド・フランス二重王国」の版間の差分

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== 戦士王ヘンリー5世 ==
ヘンリー4世の治世の主な特徴は「内戦と反乱」だったため、ヘンリー5世は若い頃から父王を助けて戦闘に参加していた。ヘンリー5世の戦闘における最初の試練はウェールズで起きた。[[1403年]]の[[{{仮リンク|シュルーズベリーの戦い]]|en|Battle of Shrewsbury}}の指揮を執ったのである。この戦いで、ウェールズ軍の放った矢がヘンリー5世の頬を貫いた。ヘンリーは重体で意識も混沌としていたが戦場を離れず、イングランドの勝利をかち取った。
 
ヘンリー5世はこれらの優秀なイングランド・ウェールズの弓兵を、大規模な形で彼らを[[アジャンクールの戦い]]で活用した。[[ウェールズ人]]の独立精神を抑えつつ、ウェールズの城は一つ一つ落されていった。ヘンリー4世が死ぬと、ヘンリー5世の弟[[クラレンス公]][[トマス・オブ・ランカスター|トマス]]が相続人として兄よりも支持された。フランス王太子はイングランド領であった[[ガスコーニュ]]で[[ギュイエンヌ]]公となった。アルマニャック派がガスコーニュを自らの主権下に置こうとしていることを仄めかしているのは明白であった。クラレンス公はイングランドからガスコーニュへ向かったが、ヘンリー5世はイングランドにとどまった。これはヘンリー5世がイングランド王位を獲得する絶好の機会であった。正確に言うと、クラレンス公がガスコーニュにいる間にヘンリー5世はイングランド王位についたのである。ヘンリー5世は同時に、フランス王太子が思い描いていたギュイエンヌ統治をかわすことに成功した。[[1413年]]にヘンリー5世は統治を開始したが、フランスの内戦は続いたままであった。ヘンリー5世はフランス王に拡大したアキテーヌ、[[ノルマンディー]]、[[プロヴァンス]]の港、アンジュー帝国に臣従を誓っていたかつての[[トゥールーズ]]伯領、[[メーヌ]]、[[アンジュー]]地方を要求した。フランスはこれを拒否し、無視した。28歳になった[[1415年]]にヘンリー5世はアジャンクールの戦いに集約されるフランスへの侵攻を開始したのである。