「ルキウス・ドミティウス・アウレリアヌス」の版間の差分

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=== 「世界の修復者」 ===
[[Image:Giovanni Battista Tiepolo - Il trionfo di Aureliano.jpg|thumb|right|350px|『アウレリアヌスの前に連行されたゼノビア』(''"Il trionfo di Aureliano o La regina Zenobia davanti ad Aureliano"'') イタリア人画家[[ジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロ]]による[[1717年]]の作]]
[[シリア属州|シュリア]]や[[ユダヤ属州|パレスチナ]]などのローマの東方属州を支配する[[パルミラ王国]]は、アウレリアヌスをローマ帝国全体の皇帝として認めていたものの、国王である[[ウァバッラトゥス]]([[ゼノビア]]の息子)もまた皇帝(アウグストゥス」を自称していた。アウレリアヌスはパルミラへ降伏を呼びかけたものの、抗戦の姿勢を示したことから、272年にアウレリアヌスは軍を率いてパルミラ領へ入った。
 
[[ビザンティウム]]とティアラで抵抗があったものの、これを下し降伏後に寛大な処置を取ったことから、多くの都市が無血で開城した。パルミラ軍とは[[アンティオキア]]および[[エメサ]]近郊での2度の戦闘にいずれも勝利を収めた(ウァバッラトゥスはこの際に戦死したとされる)。ゼノビアはパルミラ市へ籠城して、ローマ軍の兵站切れを狙ったものの、エジプトを制圧した[[プロブス]]軍がパルミラへ来援して補給路を確立させたことから、不利を察したゼノビアはペルシア([[サーサーン朝]])への逃亡を図ったが、[[ユーフラテス川|ユーフラテス河畔]]でゼノビアを捕虜とした。こうしてパルミラ王国を崩壊に追い込み、東方属州の回復に成功した。また、パルミラ王国の崩壊後にエジプトで皇帝を僭称し、ゼノビアの盟友を自称したフィルムスを破った。
 
パルミラで勝利を収めたアウレリアヌスは東方をプロブスに委ね、西方属州に割拠していた[[ガリア帝国]]に目を向けた。[[274年]]、ガリア皇帝[[テトリクス1世]]は帝位を返上してガリア帝国をローマへ復帰させることを望んでいたため、アウレリアヌスと示し合わせた上で、[[シャロン=アン=シャンパーニュ]]で対陣した後にローマへ降伏した。西方属州もローマ帝国へ復帰することとなった。