「複都制」の版間の差分

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*[[天武天皇]]は[[683年]](天武天皇12年)に「凡そ都城宮室は一処にあらず、必ず両参を造らん。故に先ず難波を都とせんと欲す。」と[[詔]]し、[[難波]]を飛鳥とともに都とした。
*[[聖武天皇]]は[[平城京]]・[[難波京]]の他に、[[木津川 (京都府)|泉川]]を挟む形で[[恭仁京]]の造営を計画した(ただし平城京の[[大極殿]]と歩廊を恭仁京に移築しており、難波との二都の計画とも考えられる)。これは当時[[洛水]]をまたいで造営されていた唐の洛陽城に倣ったものと考えられる。
*[[淳仁天皇]]は平城・難波に加え、北京として[[保良宮|保良京]]を設けた。これは唐の北京太原に倣ったものと思われる。[[761年]]([[天平宝字]]5年)造営された保良京は間もなく廃された。
*[[孝謙天皇|称徳天皇]]は[[由義宮]]を造営し西京としたが、これもすぐに廃された。
*[[明治維新]]時に[[江戸]]を[[東京]]と改名し奠都による[[京都]]との両京制とした([[東京奠都]]、[[留守官]]を参照)<ref>この間、福原への行幸があったが、平安京は廃されず、[[福原京]]も正式な設置に至らず[[離宮]]にとどまった。また都は置かれなかったが、[[鎌倉幕府]]が首都機能の一端を担ったという意味で、[[鎌倉時代]]の[[鎌倉]]を複都制として考えることもできる(山田邦和『福原京に関する都城史的考察』)。</ref><ref>[[室町時代]]に栄華を極めた[[山口市|山口]]のことを「西の京都」という意味で西京(さいきょう、にしのきょう)と呼んだが、東京に対比させた呼び名ではなかった。現在も西京銀行や山口県立西京高等学校などの名残がある。因みに、[[京都府立大学]]の旧称は西京大学だった。</ref>。