「フレデリック・ルイス (プリンス・オブ・ウェールズ)」の版間の差分

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[[ファイル:Frederick Prince of Wales.jpg|thumb|フレデリック・ルイス王太子]]
'''フレデリック・ルイス'''(Frederick Louis, [[1707年]][[2月1日]] - [[1751年]][[3月31日]])は、[[グレートブリテン王国|イギリス]]・[[ハノーヴァー朝]]の王族でイギリス[[イギリス君主一覧|国王]]兼[[ハノーファー王国|ハノーファー]][[ハノーファー君主一覧|選帝侯]][[ジョージ2世 (イギリス王)|ジョージ2世]]と妃[[キャロライン・オブ・アーンズバック]]の長男。[[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]]の父。王太子([[プリンス・オブ・ウェールズ]])に叙されていたが、王位継承を果たさずに死去薨御した。[[ドイツ語]]では'''フリードリヒ・ルートヴィヒ'''(Friedrich Ludwig)。
 
1707年、[[ハノーファー]]でハノーファー選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒ(後の[[ジョージ1世 (イギリス王)|ジョージ1世]])の孫フリードリヒ・ルートヴィヒ(Friedrich Ludwig)として生まれた。[[1714年]]に祖父がイギリス王位を継承し、新たにイギリス王太子となる父ゲオルク・アウグスト(後のジョージ2世)、母カロリーネ(英語名キャロライン)は共にイギリスに渡ったが、当時7歳だったフリードリヒはハノーファーに残された。[[1726年]]に祖父から[[エディンバラ公]]を授爵された際も、翌[[1727年]]に祖父が亡くなり父がジョージ2世としてイギリス王位を継承した際もハノーファーにとどまっており、[[1728年]]に自らイギリスに渡るまで両親に会う事はなかった。祖父が在世中にフリードリヒの渡英を許さなかったからである。
 
プリンス・オブ・ウェールズに叙された後でさえ「ハノーファーのプリンス・フリードリヒ・ルートヴィヒ」として知られていた。両親と長く離れていたこともあって素行が悪く、渡英後は特に母とは死ぬまで険悪な関係であった。政界でも父であるジョージ2世と対立し、[[イギリスの首相|首相]][[ロバート・ウォルポール]]に反発して[[1741年]]の総選挙で足並みを乱し、翌[[1742年]]のウォルポール辞任に繋げた。[[ヘンリー・ペラム]]政権でも野党と組んで対立したが、1751年、父ジョージ2世に先立って急逝した。長男ジョージ・ウィリアム・フレデリックが新たに王太子に立てられ、[[1760年]]に[[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]]として王位を継承した。
 
== 子女 ==