「玉井兄弟」の版間の差分

m
m
m (→‎概要: lk)
*[[1916年]](大正5年)[[8月5日]]、玉井清太郎が公開飛行の場所に選んだ土地は、四日市の午起海岸であった。玉井の国産水上飛行機「日本号」は、エンジンの不調などで飛行に失敗した。20000人の観衆が集まった大正6年度に相羽有と共同で日本飛行学校を東京羽田穴守に開校して、5月には玉井式3号で[[帝都]]を訪問する飛行計画を構想した。当日に離陸して上空に行き着陸寸前で墜落炎上した。
*四日市での飛行に失敗した清太郎は、[[東京市]]の[[羽田]]の海岸に[[日本飛行学校]]を開校した。訓練生を募集して、資金を増加させて、[[1917年]](大正6年)5月には3人乗りの飛行機を完成させた。[[5月20日]]の飛行公開飛行の日、[[東京日日新聞]]の[[カメラマン]]を同乗させて羽田を飛び立った。東京上空を旋回する。3回飛行し[[芝浦]]に着陸の寸前、主翼の損傷により上空50mから墜落して、玉井清太郎、カメラマン共に亡くなった。玉井清太郎は享年24だった。
*飛行学校は一時閉鎖されたが、亡兄の遺志を継いだ玉井藤一郎は[[1917年]](大正6年)7月に飛行学校を再建を図るが10月の台風被害で壊滅した。[[1918年]](大正7年)2月に羽田飛行機研究所を設立して、[[野島銀蔵]]から飛行家として認定された。同時に玉井照高に改名して、10月には四日市港の築港埋め立て地で悲願の亡兄の玉井清太郎の追善飛行に挑んだ。玉井照高が操縦する青鳥号は[[三重郡]][[河原田村 (三重県)|河原田村]]→[[四日市港]]の沖合→三重村坂部→[[河原田村]]→四日市市街→[[四日市港]]の築港地区のコースを2巡して、約25分後に無事着陸した。[[1919年]](大正8年)年、弟の藤一郎が四日市で飛行を成功させた。この時飛んだ飛行機は自身が設計した「粟津式青鳥号」と呼ばれて、[[1919年]](大正8年)5月に完成したものだった。四日市市立博物館に8分の1の[[サイズ]]の模型が展示されている。
*玉井清太郎が飛行学校の講師として活動したのは1年にも満たなかったが、この1年間の期間に羽田の飛行学校に入校したのが、当時16歳の[[円谷英二]]少年であった。