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===西域都護の設置===
[[神爵]]3年([[紀元前59年|前59年]])、匈奴の[[日逐王]]が[[握衍朐鞮単于]](在位:[[紀元前60年|前60年]] - [[紀元前58年|前58年]])に叛き、衆を率いて漢に来降したので、護{{lang|zh|鄯善}}以西使者の[[鄭吉]]はこれを迎えた。漢は日逐王を封じて帰徳侯とし、鄭吉を安遠侯とした。また漢はここで初めて[[西域都護]]を設置し、鄭吉にそれを担当させた。
 
=== 新の時代 ===
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;西域南道
*{{lang|zh|[[鄯善]]}}国(構成国:且志国、小宛国、精絶国、[[楼蘭]]国)
*[[ホータン王国|于寘]]国(構成国:戎盧国、扞弥国、渠勒国、穴山国、皮山国)
;西域北道
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*[[大秦国]](犁靬)(構成国:澤散王領、驢分王領、且蘭王領、賢督王領、汜復王領、于羅王領)
 
また、[[3世紀]]前半に入ると{{lang|zh|鄯善}}国自身が記した文書史料が豊富に出土するようになる。これらは[[プラークリット語]]の一種である[[ガンダーラ語]]を[[カローシュティー文字]]で記したものである。こういった文書の様式や、その中に登場する王号が[[クシャーナ朝]]のそれに類似することなどから、{{lang|zh|鄯善}}国(楼蘭)がクシャーナ系の移住者によって征服されたという説もある。実態は全く不明であるが、中華王朝の影響力の低下やクシャーナ朝の隆盛に伴って、楼蘭が西方の文化の影響を強く受けたことが推察される。このカローシュティー文字文書の解析から、この時期の{{lang|zh|鄯善}}国がロプノール周辺から[[精絶]]国(チャドータ)に至る領域を維持していたことが知られている。一方で漢文で書かれた実用文書も多数発見されており、三国時代の騒乱の間も漢人商人らは{{lang|zh|鄯善}}国を訪れて交易に従事していたこともわかる。ただし、こういった文書書類は商業文書や命令書、徴税記録等が大半で政治的事件の記録は乏しく、3世紀の{{lang|zh|鄯善}}国の政治史はあまりわかっていない。わずかに知りうるのは、当時の{{lang|zh|鄯善}}国(クロライナ)は、西隣の于闐(コータンナ)と国境を巡って争っていたことと、[[チベット系]]である[[羌]]の一派といわれているスピの侵入と略奪に悩まされたことなどである。一方でこういった実用文書類から、{{lang|zh|鄯善}}国の国政や社会についての知見は、この時代に関する物が多くを占める。
 
===西晋と五胡十六国時代===
[[太康 (晋)|太康]]年間([[280年]] - [[289年]])、焉耆王の[[龍安]]は[[西晋|晋朝]]に侍子を遣わした。龍安が死に、子の[[龍会]]が焉耆王となると、父の仇であった亀茲王の白山を討ち滅ぼして自らが亀茲王となり、子の[[龍熙]]を焉耆王として本国を統治させた。龍会は西域に覇を唱え、[[パミール高原|蔥嶺]]以東の諸国は焉耆・亀茲国の支配下となった。しかし、龍会は亀茲国人の羅雲に殺された。
 
[[前涼]]の[[張駿]]は[[沙州]][[刺史]]の[[楊宣]]を西域に派遣した。楊宣は部将の[[張植]]を前鋒とし、焉耆国を攻撃した。焉耆王の龍熙は防戦したが、張植に敗北した。龍熙はまた衆を率いて遮留谷にて要撃するも、ふたたび敗れてしまい、遂に楊宣に降った。また、亀茲国と{{lang|zh|鄯善}}国をも征伐し、西域はみな前涼に降った。{{lang|zh|鄯善}}王の元孟は張駿に娘を献じ、焉耆前部や[[于闐]]王も遣使を送って方物を貢納してきた。前涼は西域長史を置いて西域の統制を強めた。
 
[[前秦]]の[[建元 (前秦)|建元]]18年([[382年]])、[[驍騎将軍]]の[[呂光]]は[[苻堅]]の命を受け、都督西討諸軍事に任じられ、10余万の兵を率いて西域に進軍した。呂光の軍勢が来ると、焉耆王の龍泥流(龍熙か?)は呂光に降ったが、亀茲王の白帛純は呂光を拒んで籠城戦に持ち込んだ。しかし、呂光の攻城が激しかったので、亀茲王の白帛純は[[獪胡]]に救援を求めた。そこで獪胡王の弟である呐龍と侯将馗は騎20余万を率い、温宿王と尉頭王をも招き寄せて総勢70余万でもって亀茲王を救いに来た。しかし、その70万をもってしても呂光を破ることができず、敗北した。これにより亀茲城の白帛純は珍宝を持って逃走したため、王侯降者は三十余国にのぼり、亀茲城は陥落した。この時、呂光は仏僧の[[鳩摩羅什]](クマーラジーヴァ)を捕えており、以後軍師として取り立てる。その後の[[396年]]、呂光が天王と称して[[後涼]]を建国すると、各国の王は侍子を遣わして朝貢した。
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=== 北朝の時代 ===
[[ファイル:Western Regions 5th century (ja).png|thumb|350px|[[5世紀]]の西域諸国。]]
[[441年]]、[[沮渠無諱]]は弟の[[沮渠安周]]を派遣して{{lang|zh|鄯善}}国を攻撃させ、翌年([[442年]])には沮渠無諱と沮渠安周の2人で攻撃して{{lang|zh|鄯善}}を占拠した。その翌年([[443年]])も、沮渠安周を派遣して車師前部国を破った。
 
[[太平真君]]6年([[445年]])、[[北魏]]の[[太武帝]](在位:[[423年]] - [[452年]])は成周公の[[万度帰]]に命じて{{lang|zh|鄯善}}国を攻撃させた。万度帰は{{lang|zh|鄯善}}国を占領すると、{{lang|zh|鄯善}}国王の真達を連れ去り、{{lang|zh|鄯善}}国を滅ぼした。次に万度帰は焉耆国を討伐し、左回,尉犁の2城を落とし、さらに都の員渠城を攻めた。焉耆王の龍鳩尸卑那は籠城して防いだが、万度帰に敗れ、山中に逃れた。これにより焉耆国は北魏の支配下に入った。その後、龍鳩尸卑那は焉耆国に戻るが、国の惨状を見て隣国の亀茲国に亡命した。万度帰は続いて亀茲国を攻撃した。亀茲国は烏羯目提らを遣わして領兵3千で防戦し、万度帰はこれを撃って敗走させ、200余級を斬首し、駝馬([[ラクダ]])を獲得して帰還した。亀茲国はこの後、毎回遣使を送って朝貢するようになる。
 
[[柔然]]の[[永康 (柔然)|永康]]7年([[470年]])頃、柔然可汗の[[予成]](在位:[[464年]] - [[485年]])は{{lang|zh|鄯善}},焉耆,亀茲,姑墨などの西域諸国を役属させ、于闐国に迫り、于闐国は北魏に救援を要請する。
 
その後、[[北周]]の[[保定 (北周)|保定]]年間([[561年]] - [[565年]])や[[隋]]の[[大業]]年間([[605年]] - [[618年]])にも西域諸国は中国に朝貢し続けた。