「式守伊之助 (34代)」の版間の差分

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'''34代式守伊之助'''(さんじゅうよんだい しきもりいのすけ、[[1941年]][[2月10日]] - )は、[[大相撲]]の[[立行司]]の一人。[[式守伊之助]]としての在位期間は[[2006年]][[1月]]~[[2006年]][[2月]]。[[花籠部屋]]→[[放駒部屋]]→[[二子山部屋]]→[[貴乃花部屋]]所属。[[北海道]][[赤平市]]出身。本名は棚田好男。身長174cm
 
== 人物 ==
[[北海道]][[赤平市]]出身。本名は棚田好男。身長174cm。
[[1955年]]9月場所[[初土俵]]。初土俵時の行司名は木村光彦。譲り名がなかったため、実に45年もの間この名で通していた。[[2001年]]1月、[[三役]]格昇進と同時に'''木村光之助'''(2代)と改名<ref>光之助は先代がおり、[[昭和]]初期の[[幕内]]格行司で[[高砂部屋]]所属。[[1939年]]現役引退、[[年寄]]・[[湊 (相撲)|湊]]を襲名。1955年1月廃業。</ref>。立行司になるまでは16代[[木村玉光]]を襲名することになっていたとされている。
 
[[1955年]]9月場所[[初土俵]]。初土俵時の行司名は木村光彦。譲り名がなかったため、実に45年もの間この名で通していた。[[1977年]]1月[[十両]]格に昇格。[[1989年]]1月に[[幕内]]格に昇格。[[2001年]]1月[[三役]]格昇進と同時に'''[[木村光之助''']](2代)と改名<ref>光之助は先代がおり、[[昭和]]初期の[[幕内]]格行司で[[高砂部屋]]所属。[[1939年]]現役引退、[[年寄]]・[[湊 (相撲)|湊]]を襲名。1955年1月廃業。</ref>。立行司になるまでは16代[[木村玉光]]を襲名することになっていたとされている
光彦時代の[[1995年]]11月場所、この場所3度(4日目[[前頭]]7枚目[[安芸乃島勝巳|安芸乃島]](現[[高田川 (相撲)|高田川]])-同11枚目[[智乃花伸哉|智ノ花]](現[[玉垣 (年寄名跡)|玉垣]])戦、5日目前頭6枚目[[三杉里公似|三杉里]]-同8枚目[[肥後ノ海直哉|肥後ノ海]](現[[木村瀬平|木瀬]])戦、8日目安芸乃島-前頭15枚目[[小城乃花昭和|小城ノ花]](現[[高崎 (相撲)|高崎]])戦)において差し違えたというエピソードがある。
[[2005年]]11月場所で[[木村庄之助_(31代)|31代木村庄之助]]が[[停年]]。もう一人の立行司である[[木村庄之助_(32代)|33代式守伊之助]]と光之助は翌[[2006年]]1月場所後に停年を迎えるため2人とも昇格するか注目されたが、33代伊之助は32代庄之助を襲名、光之助も立行司に昇格、34代式守伊之助を襲名した。伊之助在位1場所は在位0場所に終わった[[式守伊之助 (14代)|14代伊之助]](番付上は在位1場所であるが死跡)を除けば[[式守伊之助_(30代)|30代式守伊之助]]の2場所を下回る最短記録。しかし1月場所後も役員選挙権のある評議員資格があったため、伊之助として在位。2006年2月5日の[[日本大相撲トーナメント]]では、伊之助として最後の裁きを行った。[[2006年]][[2月9日]]に停年退職。本場所最後の一番は[[関脇]][[白鵬翔|白翔]]朝青龍-[[大関]][[琴欧洲勝紀|琴欧州]](後に琴欧洲)。
 
[[2006年]]1月に立行司に昇格。34代式守伊之助を襲名した。しかし、3月場所前に停年(定年。以下同)を迎えたため、わずか1場所の伊之助であった。1月場所後も役員選挙権のある評議員資格があったため、伊之助として在位。2006年2月5日の[[日本大相撲トーナメント]]では、伊之助として最後の裁きを行った。
 
==その他==
* 上記のとおり45年にもわたって木村光彦で通していたため、同じ一門の[[木村庄之助_(29代)|29代木村庄之助]]からは何度も改名の打診を受けていたという。
* 立行司になるまでは16代[[木村玉光]]を襲名することになっていたとされている。
* 伊之助在位1場所は在位0場所に終わった[[式守伊之助 (14代)|14代伊之助]](番付上は在位1場所であるが死跡)を除けば最短記録。また立行司になりながら、本場所の土俵で[[横綱]]戦を裁いた経験がなかった。
* 光彦時代の[[1995年]]11月場所、この場所3度(4日目[[前頭]]7枚目[[安芸乃島勝巳|安芸乃島]](現[[高田川 (相撲)|高田川]])-同11枚目[[智乃花伸哉|智ノ花]](現[[玉垣 (年寄名跡)|玉垣]])戦、5日目前頭6枚目[[三杉里公似|三杉里]]-同8枚目[[肥後ノ海直哉|肥後ノ海]](現[[木村瀬平|木瀬]])戦、8日目安芸乃島-前頭15枚目[[小城乃花昭和|小城ノ花]](現[[高崎 (相撲)|高崎]])戦)において差し違えたというエピソードがある。
* 最後の[[2006年]][[1月]]場所では、順番では[[木村庄之助_(32代)|32代庄之助]]が[[優勝決定戦 (相撲)|優勝決定戦]]を裁く予定だったが、32代庄之助の厚意により伊之助が裁くことになった。この場所は[[大関]][[栃東大裕|栃東]](現[[玉ノ井]])が本割で優勝を決めたが、唯一の横綱[[朝青龍明徳|朝青龍]]も終盤崩れ優勝決定戦進出の可能性がなくなったため、彼は優勝決定戦でも横綱戦を裁くことができなかった。立行司になりながら、本場所の土俵で[[横綱]]戦を裁いた経験がないまま停年を迎えたのは近年では彼のみである
* 事務能力にも大変優れており、会社で言うところの、いわゆる総務部長的な存在だったという。[[二子山部屋]]時代の部屋の師匠でもある元大関[[貴ノ花利彰|貴ノ花]]の二子山親方からは「光之助さんがいれば大丈夫」と信頼を寄せられていたという。
 
== 履歴 ==
* [[1955年]][[9月]] 初土俵・木村光彦
* [[1977年]][[1月]] [[十両]]格に昇進。
* [[1989年]][[1月]] [[幕内]]格に昇進。
* [[2001年]][[1月]] [[三役]]格に昇進。格 [[木村光之助]]と改名。
* [[2006年]][[1月]] [[立行司]]に昇格 34代[[式守伊之助]]を襲名。
* [[2006年]][[2月9日]] 停年退職。
 
== 脚注 ==
{{Reflist}}
 
== 関連項目 ==
*[[行司]]
*[[式守伊之助]]
*[[木村光之助]]
*[[木村玉光]]
 
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