「式守伊之助 (34代)」の版間の差分

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==その他==
* 上記のとおり45年にもわたって木村光彦で通していたため、同じ一門の[[木村庄之助_(29代)|29代木村庄之助]]からは何度も改名の打診を受けていたという。
* 立行司になるまでは16代[[木村玉光]]を襲名することになっていたとされているが実現しなかった。ちなみに16代を襲名したのは[[木村玉光 (16代)|木村信孝]]である。
* 光彦時代の[[1995年]]11月場所、この場所3度(4日目[[前頭]]7枚目[[安芸乃島勝巳|安芸乃島]](現[[高田川 (相撲)|高田川]])-同11枚目[[智乃花伸哉|智ノ花]](現[[玉垣 (年寄名跡)|玉垣]])戦、5日目前頭6枚目[[三杉里公似|三杉里]]-同8枚目[[肥後ノ海直哉|肥後ノ海]](現[[木村瀬平|木瀬]])戦、8日目安芸乃島-前頭15枚目[[小城乃花昭和|小城ノ花]](現[[高崎 (相撲)|高崎]])戦)において差し違えたというエピソードがある。
* 最後の[[2006年]][[1月]]場所では、順番では[[木村庄之助_(32代)|32代庄之助]]が[[優勝決定戦 (相撲)|優勝決定戦]]を裁く予定だったが、庄之助の厚意により伊之助が裁くことになった。この場所は[[大関]][[栃東大裕|栃東]](現[[玉ノ井]])が本割で優勝を決めたが、唯一の横綱[[朝青龍明徳|朝青龍]]も終盤崩れ優勝決定戦進出の可能性がなくなったため、彼は優勝決定戦でも横綱戦を裁くことができなかった。立行司になりながら、本場所の土俵で[[横綱]]戦を裁いた経験がないまま停年を迎えたのは近年では彼のみである。