「グーシ・ハーン」の版間の差分

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==生涯==
[[チベット仏教]]において[[ゲルク派]]と[[カルマ派]]の抗争が激化すると、それぞれの[[施主]]を務めていたモンゴル領主たちの間でも争いが起こった。カルマ派支持者であった[[チャハル]]部長[[リンダン・ハーン]]の死後、彼に続いた[[ハルハ]]左翼部の[[チョクト・ホンタイジ]]は[[青海]]地方に侵攻し、そこにいたゲルク派の[[トメト]]部,[[ヨンシエブ]]部,[[オルドス]]部の勢力を滅ぼして青海地方を占領した([[16321635年]])。ここに至ってゲルク派は新たな施主に[[オイラト]]を選び、青海のチョクト・ホンタイジらカルマ派を征討するよう要請した。
 
[[1636年]]、オイラトの[[ホシュート]]部長であったトゥルバイフはこの要請に応じ、暮の結氷期を利用して一万のオイラト軍を青海に侵攻させた。トゥルバイフは翌年([[1637年]])までに三万のチョクト・ホンタイジ軍を殲滅し、その冬にゲルク派の座主である[[ダライ・ラマ5世]]から「テンジン・チューキ・ギャルポ(持教法王、護教法王)」の称号を授かった。「テンジン・チューキ・ギャルポ」はモンゴル語で「シャジンバリクチ・ノミン・ハーン(śasin i bariγci nom un qaγan、護教法王)」あるいは「グーシ・ノミン・ハーン(国師法王)」(以後、グーシ・ハーン)と呼ばれたが、これによってモンゴルの[[チンギス・カン]]直系ではない者がハーン位を名乗ることとなった<ref>グーシ・ハーンは一応、系譜上ではチンギス・カンの弟[[ジョチ・ハサル]]の子孫とされていた。</ref>。グーシ・ハーンはこの遠征に同行した[[ジュンガル]]部長の[[ホトゴチン]]に「バートル・ホンタイジ(勇敢なる副王)」の称号を授けて自分の娘と結婚させ、オイラト本国の統治を任せた。