「一撃離脱戦法」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Sutabo (会話 | 投稿記録)
12行目:
{{要出典|[[アメリカ陸軍航空隊]]の[[クレア・リー・シェンノート]]は、[[1930年代]]前半に二機一組での一撃離脱戦法の有効性をただ一人主張していたが、当時の[[アメリカ軍]]パイロットたちには受け入れられなかった。後に彼は[[1940年]]の[[フライング・タイガース#カーチスP-40ウォーホーク|フライング・タイガース]]の設立時に、一撃離脱戦法を徹底した[[訓練]]を実施、格闘戦性能に優れる日本軍機を相手に効果を挙げている。|date=2013年5月}}
 
1939年ノモハン事変においてロシアの[[I-16]]は高い運動性を持つ機体だった悪く、より優れた運動性を持つ97式戦闘機との格闘戦で一方的にやられていたが、後半になると、スペイン内戦で実戦経験を積んだパイロットが投入され、一撃離脱に徹して97式互角の闘機も相応の被害を与えなった<ref>野原茂『日本陸軍戦闘機の系譜図』枻出版社63頁</ref>。{{要出典|また日本陸軍もドイツの影響を受けて一撃離脱を早い段階から取り入れていた。|date=2013年5月}}
 
{{要出典|[[1940年]]の[[バトル・オブ・ブリテン]]当時の[[イギリス空軍]]は、[[スーパーマリン スピットファイア|スピットファイア]]のような格闘性能を優先し設計・生産した戦闘機を運用し、当時実践配備が始まった[[レーダー]]を活用し、レーダーの情報により敵機の襲来を事前に察知、襲来前に敵機よりも高高度で待ち受けることにより、敵の一撃離脱戦法を封じる作戦を取り成果を挙げた。|date=2013年5月}}