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[[File:Alhambra Granada desde Albaicin.jpg|thumb|250px|グラナダ市南東の丘に位置するアルハンブラ宮殿]]
'''アルハンブラ宮殿'''(アルハンブラきゅうでん、{{lang-es|La Alhambra}} ラランブラ)は、[[スペイン]]の[[アンダルシア州]][[グラナダ県 (スペイン)|グラナダ県]][[グラナダ]]市南東の丘の上に位置する[[城塞]][[宮殿]]である。
 
== 概要 ==
[[ファイル:Granada, Spain location.png|thumb|200px|アルハンブラ宮殿はスペイン最南部のグラナダ (赤丸) に位置する]]
[[ウマ]]の背のような形をした丘は頂上部が長さ 740 m 、幅 205 m にわたって平坦になっており、[[夏]]場非常に暑いと言われるグラナダの中でもとても涼しい場所に位置している。
 
[[宮殿]]と呼ばれているが[[城塞]]の性質も備えており、その中に[[住宅]]、[[官庁]]、[[軍隊]]、[[厩舎]]、[[モスク]]、[[学校]]、[[浴場]]、[[墓地]]、[[庭園]]といった様々な施設を備えていた。その大部分は[[イベリア半島]]最後の[[ムスリム]][[政権]]・[[ナスル朝]]の時代に[[建設]]され、スルタン(王)の居所として用いられた。14[[14世紀]]の学者[[アフマド・アル・ウマリー]]の地理書によると、スルタンは月曜と木曜にアルハンブラのある丘の上で、人民に対し、[[コーラン]]1010章とムハンマドの言行録の一部を朗読したとされる。
 
建築の材料には、レンガ、[[木材]]、練土などのもろいものが多く、彫刻を施した石材などは最低限しか使用されていない。アルハンブラ宮殿の中心は、いくつかの建造物に囲まれた中庭(パティオ)におかれ、他の[[イスラーム建築]]の例に倣っている。
 
建物は白を基調としているが、アルハンブラとは[[アラビア語]]で「'''赤い'''城塞」を意味するアル=カルア・'''アル=ハムラー''' ({{lang|ar|القلعة الحمراء}}, {{unicode|al-qal‘ah al-ḥamrā'}}) と呼ばれていたものが、[[スペイン語]]において転訛したものである。この名称の由来については、城塞周辺の土地の土壌が赤いため、あるいは建築に使われた[[煉瓦]]の色であるとか、宮殿が赤い[[漆喰]]で覆われていたからなど諸説あるが、[[イブン・アルハティブ]]は、アルハンブラ宮殿増築の時、夜を通してかがり火を燃やして工事したためグラナダ平野から見上げた宮殿は赤く染まって見えたことからこのように呼ばれたという説を唱え、これが一般的な説として通用している。スペイン語表記ではAlhambraと綴る。
 
== 歴史 ==
アルハンブラは構造的には一つの城塞都市であるが、当初から全体の形が計画されていたのではない。異なる時代に建てられた様々な建築物の複合体であり、時代により、建築様式や形状などが異なっている。その前半は[[ムーア人]]王朝の栄枯盛衰と共にあり、[[9世紀]]末イベリア半島南部を版図としていた[[後ウマイヤ朝]]末期の、アルカサーバと呼ばれる砦が原形であると言われている。これは、[[アラブ人]]が農民の反乱軍からの防御壁として築いたものである。
 
イスラーム教徒がイベリア半島に進出する前[[8世紀]]初頭まで、この地は西ゴート王国の支配下にあった。711[[711]]、ウマイヤ朝の北アフリカ総督である[[ムーサー・イブン・ヌサイル]]が武将ターリクに命じ、[[トレド]]までを占領。その後数年で、イベリア半島全域がイスラーム圏となった。この地に、最初に栄えたのが後ウマイヤ朝であるが、このときの都はまだ[[コルドバ]]であり、グラナダの丘の上には軍事要塞アルカサーバだけが建てられていた。現在、アルハンブラの最も西の部分である。
 
11[[11世紀]]前半から、[[キリスト教徒]]の国土回復運動である[[レコンキスタ]]が本格化し、1085[[1085]]にはトレド、1236[[1236]]にはコルドバ、1246[[1246]]には[[セビーリャ]]を陥れた。イスラーム圏に残されたのは、グラナダを中心とする[[アンダルシア]]南部地方のみとなった。一方、アルハンブラ宮殿が大きく拡張されたのは、この時期に建国したイベリア半島最後のイスラム王国であり、グラナダを首都とした[[ナスル朝]]([[1238年]] - [[1492年]])の時代に入ってからである。[[メディナ]]出身[[デアル・アフマド家]]の血を引く[[ムハンマド1]]、および、その子[[ムハンマド2]]6060年も歳月をかけ、[[水道]]を設置し、アルカサーバの拡張工事を行い、宮殿(14(14世紀に取り壊され、現在は残っていない)を造った。その後も歳月と共に建物や塔が建築されていったが、大きな変貌を遂げるのは、ナスル朝の黄金時代を築いた[[ユースフ1世 (ナスル朝)|ユースフ1世]]とその息子の[[ムハンマド5世 (ナスル朝)|ムハンマド5世]]の時代である。ユースフ一世時代には、城廊では、マチューカの塔、コマーレスの塔、正義の門、スィエテ・スエーロスの門、宮殿ではコマレス宮を中心とする建物が造られた。ムハンマド5世の時代には、城廊では、ぶどう酒の門(城廊のなかでは唯一[[アラベスク]]模様の装飾がある)、宮殿ではライオンの中庭を中心とする建物が造られた。ライオンの中庭は、長さ2828メートル、幅1616メートルで、庭を囲む4つの建物には124124本の[[大理石]][[円柱]]が立ち並んでいる。中庭の東側にある諸王の間には、1010人のアラブ人貴族を描いた絵画がある。これは、初代のムハンマド1世から十代の[[アブー・サイード]]までのナスル朝スルタンであるという説と、重臣が法廷を開いている場面であるという説があり、後者の説に基づき、「裁きの広間」とも呼ばれている。
 
ムハンマド5世没後、ナスル朝はおよそ100100年間存続するが、新たな建造物はほとんど建てられなかった。
 
1492年、[[カトリック]]の[[レコンキスタ]]によって[[グラナダ]]が陥落するとアルハンブラ宮殿にも一部手が加わった。グラナダがキリスト教徒の手に渡った直後に、[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カルロス5]]がこの地を[[避暑地]]として選び、カルロス5世宮殿を建設。当時イタリア留学であった[[ペドロ・マチューカ]]が、正方形の建物の中央に、円形の中庭を設けるという設計をし(現在も未完成)、スペインにおける純イタリア様式の成功傑作と称されている。
 
[[スペイン]]は、この地を[[1718年]]まで城代に管理を任せていたが、カルロス1世([[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]])の時代に入ると、この宮殿を自らの[[帝国]]の支配の中心地にする考えを持っていたと言われており、いくつかの改築が行われている。カルロス5世の噴水や、カルロス5世の宮殿の建設が始まり(宮殿は完成することはなかった)、モスクは[[教会]]へ変えられ、礼拝堂や[[修道院]]が建築されている。
1492年、[[カトリック]]の[[レコンキスタ]]によって[[グラナダ]]が陥落するとアルハンブラ宮殿にも一部手が加わった。グラナダがキリスト教徒の手に渡った直後に、カルロス5世がこの地を避暑地として選び、カルロス5世宮殿を建設。当時イタリア留学であったペドロ・マチューカが、正方形の建物の中央に、円形の中庭を設けるという設計をし(現在も未完成)、スペインにおける純イタリア様式の成功傑作と称されている。
 
アルハンブラ宮殿は現在スペイン屈指の世界遺産であり世界中からの観光客が訪れる名所となっているが、これが元は'''[[スペイン]]に屈服させられた[[イスラム教徒]]の宮殿'''であるということは象徴的な意味を持っている。即ち、現在のスペイン国家は公式には[[レコンキスタ]]の過程で、それまでのイスラム的な文化を払拭(カトリック教会側から見れば浄化)して建てられたカトリック教国であるが、現実にはスペインをスペインたらしめる数多くの文化がイスラムにその多くを負っているということである。
[[スペイン]]は、この地を[[1718年]]まで城代に管理を任せていたが、カルロス1世([[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]])の時代に入ると、この宮殿を自らの[[帝国]]の支配の中心地にする考えを持っていたと言われており、いくつかの改築が行われている。カルロス5世の噴水や、カルロス5世の宮殿の建設が始まり(宮殿は完成することはなかった)、モスクは教会へ変えられ、礼拝堂や[[修道院]]が建築されている。
 
スペインを訪れるイスラム教徒たちは、このアルハンブラを他の誰にも増して特別な気持ちで見るという。彼等にとってアルハンブラはイスラム=スペイン([[アンダルス|アル=アンダルス]])の象徴であり、イスラムの支配と信仰が砕かれてもなおスペインに残った輝かしい遺産なのである。
アルハンブラ宮殿は現在スペイン屈指の世界遺産であり世界中からの観光客が訪れる名所となっているが、これが元は'''[[スペイン]]に屈服させられた[[イスラム教徒]]の宮殿'''であるということは象徴的な意味を持っている。
 
即ち、現在のスペイン国家は公式には[[レコンキスタ]]の過程で、それまでのイスラム的な文化を払拭(カトリック教会側から見れば浄化)して建てられたカトリック教国であるが、現実にはスペインをスペインたらしめる数多くの文化がイスラムにその多くを負っているということである。
 
スペインを訪れるイスラム教徒たちは、このアルハンブラを他の誰にも増して特別な気持ちで見るという。
 
彼等にとってアルハンブラはイスラム=スペイン([[アンダルス|アル=アンダルス]])の象徴であり、イスラムの支配と信仰が砕かれてもなおスペインに残った輝かしい遺産なのである。
 
== 構造物群 ==
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== 備考 ==
* [[クラシックギター]]の名手[[フランシスコ・タレガ|タレガ]] は、この宮殿にちなんで、トレモロ奏法で有名な『[[アルハンブラの思い出]]』 (Recuerdos de la Alhambra) を作曲した。
* [[クロード・ドビュッシー]]は、この宮殿のワインの門をイメージして、『La Puerta del Vino』を作曲した
* [[アメリカ]]の作家[[ワシントン・アーヴィング]]は、『[[アルハンブラ物語]]』という紀行文学を書き、このためアルハンブラ宮殿が欧米諸国に広く知られるようになった。
* 宮殿内に国営ホテル[[パラドール]]がある。