「ジョン・ショウ・ビリングス」の版間の差分

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ビリングスが軍医総監局にいた時代に彼は目録作成以外の面でも功績を挙げている。軍事医学や公衆衛生に関する分野を中心として150篇にも及ぶ論文(退官後の図書館関係のものも含めると171篇にのぼる)を発表してアメリカにおける[[衛生学]]の草分け的存在として評価されている他、[[顕微鏡]]による[[微生物]]研究にも力を注ぎ、アメリカにおける[[顕微鏡写真]]の第一人者として知られており、[[1893年]]の[[コロンビア博覧会]]において彼の研究成果の出展が行われている。また、[[1889年]]に[[ジョンズ・ホプキンス大学]]の付属病院として開設された[[ジョンズ・ホプキンス病院]]([[:en:Johns Hopkins Hospital|en]])の設計デザインを引き受け、当時望みうる最高の衛生環境を備えた病院を作り上げ、更に[[1887年]]に新築された新しい図書館([[:en:Army Medical Museum and Library|en]])の設計も彼が行っている(なお、軍医総監局図書館は[[1867年]]以来、[[エイブラハム・リンカーン]]が[[暗殺]]されたことで知られる[[フォード劇場]]の一郭に置かれていたが、彼はこの施設に不満を抱いて早くから図書館新築に動いていた。結果的に図書館のあった部分は新館への移転から6年後に崩落事故を起こして多数の死者を出している)。更に[[ペンシルベニア大学]]の衛生学研究所の設計も行い、同校において衛生学の講師も務めた。彼は1879年に全国健康局の副総裁に任命されて[[国勢調査]]や[[黄熱病]]対策にあたった。この時の部下が[[ハーマン・ホレリス]]で、後にビリングスがホレリスと統計の機械的処理の可能性について意見を交わし、ホレリスの[[タビュレーティングマシン]]発明のきっかけを与えたとされている。1886年にはワシントン哲学協会会長にも就任している。
 
こうした業績に対して、1889年に[[オックスフォード大学]]が、2年後には[[トリニティ・カレッジ (ダブリン大学)|ダブリン・トリニティ・カレッジ]]が彼に名誉医学博士の称号を授けた。だが、多くの名声を得ていたにも関わらず、彼は軍医総監代理の地位に留まり、遂に総監に昇ることないまま、1895年9月に退官することになり、[[11月30日]]には[[フィラデルフィア]]で盛大なセレモニーが行われた。ビリングスにとっての唯一の心残りは、かつて自分が作成した軍医総監局図書館目録の最初の名称に「the National Medical Library」すなわち「国立医学図書館」の呼称を用いたように、軍医総監局図書館を国立の医学図書館として発展させる構想を実現できなかったことであった。ビリングスの構想が実現するのは彼の没後のことである(→[[アメリカ国立医学図書館]])
 
=== ニューヨーク公共図書館長時代 ===