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1939年からはオットー・フランク家の住居のすぐ近くのザイデル・アムステルラーン34番地のアパートで暮らすようになり、フランク一家とは家族ぐるみの付き合いとなった。また同時期にオスナブリュックから逃れてきたユダヤ人60人ほどとともに『オスナブリュックの夜』という親睦会も開いていた<ref name="リー(2002)103">[[#リー(2002)|リー(2002)、p.103]]</ref>。 
 
ファン・ペルス一家もアムステルダムでひとまずの平和を取り戻そうとしていた。しかし長くは続かなかった。1940年5月、ヒトラー率いるドイツ軍がオランダを侵略し、全土を占領した。ヒトラーが[[国家弁務官]]に任じた[[アルトゥル・ザイス=インクヴァルト]][[親衛隊中将]]が新たなオランダの統治者となり、彼はオランダでもユダヤ人迫害政策を開始させたのであった。危険を感じて、1942年7月23日に[[オットー・フランク]]のフランク一家とともにアムステルダム市プリンセン運河通り263番地のオットーの会社の隠れ家に隠れることとなった。隠れ家入りに先立ち、顔なじみの精肉店をミープに紹介しており、隠れ家生活での肉類の調達はここが供給源となった。その後、2年余にわたりフランク一家や遅れて隠れ家に合流した[[フリッツ・プフェファー]]らとともに隠れ家生活を送る。[[アンネ・フランク]]の日記からは隠れ家生活でもソーセージ作りの腕を振るう様子や、気分や機嫌の良し悪しが煙草の有無次第になることまたフランク一家やプフェファーといろいろ摩擦も多かったこと等が窺われるが、ヘルマンの冗談好きな陽気な性格は隠れ家のメンバーをなごませてもいたようである。また隠れ家生活でもソーセージ作りの腕を振るっていたようでもあった
 
1944年8月4日、密告を受けて出動した[[保安警察]]の[[カール・ヨーゼフ・ジルバーバウアー]][[親衛隊曹長|SS曹長]]率いる警察部隊により隠れ家メンバーは全員逮捕された。[[ヴェステルボルク通過収容所]]を経て、9月5日から6日にかけて[[アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所]]に到着し選別を受けて、その時は労働可能と認定されたが、後にガス室に送られた<ref name="オランダ(1994)57">[[#オランダ(1994)|『アンネの日記 研究版』(1994)、p.57]]</ref><ref name="リー(2002)341">[[#リー(2002)|リー(2002)、p.341]]</ref>。