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1943年1月20日「[[大淀 (軽巡洋艦)|大淀]]」艤装員長。2月28日「[[大淀 (軽巡洋艦)|大淀]]」[[艦長]]。[[1943年]]11月、海軍少将に進級。1944年4月6日南東方面艦隊兼[[第十一航空艦隊 (日本海軍)|第11航空艦隊]]参謀長。
 
1944年12月軍令部第1部長着任。軍令部参謀[[猪口力平]]大佐によれば「富岡少将は、万人が認める人格見識ともにすぐれた作戦家」という<ref>猪口力平・中島正『神風特別攻撃隊の記録』雪華社</ref>。
1944年12月軍令部第1部長着任。台湾、沖縄を視察した際、台湾防衛は自信を持ちえない、沖縄戦場のみが戦勢挽回を策し得る決戦場であるとの確信を得て沖縄方面航空決戦に強い意向を持つようになる<ref>戦史叢書93大本営海軍部・聯合艦隊(7)戦争最終期241-242頁</ref>。
 
1945年4月の[[大和 (戦艦)|戦艦大和]]による[[坊ノ岬沖海戦|海上特攻]]について事前に連合艦隊参謀[[神重徳]]が許可を取りに来たことについて富岡は「この案を持ってきたとき私は横槍を入れた。大和を九州方面に陽動させて敵の機動部隊を釣り上げ、基地航空部隊でこれを叩くというなら賛成だが、沖縄に突入させることは反対だ。第一燃料がない。本土決戦は望むところではないが、もしもやらなければいけない情勢に立ち至った場合の艦艇燃料として若干残しておかなければならない。ところが私の知らないところで[[小沢治三郎]]軍令部次長のところで承知したらしい」と話している<ref>戦史叢書17沖縄方面海軍作戦626頁</ref>。