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ウルゲンチが歴史にあらわれたのは比較的遅く、動静がはっきりするのはホラズムの[[イスラム教|イスラム]]化以降である。もともとは[[ペルシア人|ペルシア系]]の住民が多く住んでいたが、[[アラル海]]周辺の草原地帯を通じて現在の[[カザフ草原]]に住む[[テュルク系]][[遊牧民]]たちの交易拠点となり、「草原の港」として経済的に発展した。[[10世紀]]には、ウルゲンチを拠点とする土着のペルシア人君侯が右岸のカースにいるホラズム・シャー(ホラズム王)から独立し、さらにカースを併合して自らホラズム・シャーを自称したので、その本拠地であるウルゲンチは全ホラズムの中心都市となった。
 
[[11世紀]]にテュルク系王朝の[[ガズナ朝]]、[[セルジューク朝]]があいついで中央アジアを席捲するとホラズムもその支配を受け、ウルゲンチには[[マムルーク]](奴隷軍人)出身の将軍が総督として派遣されてくるようになった。[[12世紀]]に入るとセルジューク朝のホラズム総督がホラズム・シャーを自称して独立し、ウルゲンチは[[ホラズム・シャー朝]]の首都となった。ホラズム・シャー朝のもとで{{仮リンク|カンクリ|zh|康里|en|Kankalis|label=カンクリ族}}などテュルク系遊牧民の流入、定住化が増加し、ウルゲンチの住民のほとんどはテュルク系の言葉を話すようになっていった。
 
12世紀末から[[13世紀]]初頭にかけ、ホラズム・シャー朝が中央アジアから[[イラン]]に広がるセルジューク朝の旧領を支配する大帝国に発展すると、ウルゲンチはその都として繁栄をきわめ、当時の[[イスラム世界]]において最も壮大で豊かな都市であると言われるほどになった。この時代には市街地は[[アムダリヤ川]]を越え、川をまたいで両岸に広がっていたといわれる。しかし、ホラズム・シャーの[[アラーウッディーン・ムハンマド]]と、その外戚のテュルク系遊牧民[[{{仮リンク|カンクリ|zh|康里|en|Kankalis|label=カンクリ]]族}}の間での対立が深まり、アラーウッディーンはカンクリの影響が強いウルゲンチを離れて[[サマルカンド]]に移った。
 
[[1220年]]、中央アジアを席捲した[[モンゴル帝国]]の[[チンギス・カン|チンギス・ハーン]]は、長男[[ジョチ]]と次男[[チャガタイ]]の率いる軍をホラズムに送り込み、ウルゲンチを包囲した([[チンギス・カンの西征]]、[[:en:Mongol invasion of Khwarezmia and Eastern Iran]])。ウルゲンチはカンクリの軍人たちが中心になって頑強に抵抗し、ジョチとチャガタイの兄弟仲が不和であったことにも助けられて長期の篭城を続けたが、[[1221年]]に攻略され、都市は徹底的に破壊された。