削除された内容 追加された内容
Ellsiemall (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
69行目:
{{中華人民共和国}}
 
'''朱 徳'''(しゅ とく、ヂュー・ドゥー、[[1886年]][[12月1日]] - [[1976年]][[7月6日]])は[[中華民国]]・[[中華人民共和国]]の[[軍人]]、[[政治家]]。原名は'''朱 代珍'''、'''朱 建徳'''、[[]]は'''玉階'''。[[中国共産党]]入党以来、軍事部門を指導し、[[中国人民解放軍]]の「建軍の父」と評される<ref>『毛沢東秘録』下、375 - 376ページ。</ref>。
 
中華人民共和国建国後、[[中華人民共和国元帥|元帥]]の首席に列せられ、[[中華人民共和国副主席|国家副主席]]や[[全国人民代表大会常務委員会]]委員長(国会議長に相当)などの要職を歴任した。また、[[1975年]]1月の憲法改正によって[[中華人民共和国主席|国家主席]]が廃止され、全人代常務委員会が[[国家元首]]の権能を果たすようになったので、1976年に死去するまでの間、彼が中華人民共和国の国家元首格(在任:1975年1月17日 - 1976年7月6日)であった。
 
==生涯==
1886年12月1日、現在の[[四川省]][[南充市]]儀隴県にて生まれる。生家は[[客家]]の小作農であり、貧農であった。伯父の朱世林は才気煥発なこの甥をかわいがり、5歳で[[山菜]]取りをしなければ生活できない環境の朱徳に教育の機会を与えた。これが朱徳の人生に大きな影響を与える事となる。
 
[[成都]]の高等[[師範学校]]を卒業し、体育教官となった。この頃には、[[秘密結社|地下結社]]である[[洪門#哥老会|哥老会]]にも加わっている。[[1909年]]、[[雲南省]]に創設された軍事学校である[[雲南陸軍講武堂]]に入学し、60年以上に及ぶ軍歴が始まる。また、この年に[[孫文]]が率いる[[中国同盟会]](後の[[中国国民党|国民党]])に参加している。翌年、[[新軍]]の少尉に任官。[[1911年]]、[[蔡鍔]]将軍の下で[[辛亥革命]]に参加し、[[1915年]]の[[護国戦争]]にも参加した。
 
[[1921年]]、安定した生活を保障された国民党軍を辞した。これは、軍務を遂行する傍ら、雑誌「[[新青年 (中国)|新青年]]」を愛読したこと、[[袁世凱]]政権打倒を進める軍の行動と、革命の進捗に疑問を抱いたことなどが背景であるといわれる。
84行目:
孫文との面談を終えた後、朱徳は中国共産党への入党を申請した。しかし、共産党の指導者である[[李大ショウ|李大釗]]は、朱徳が国民党員ではないとはいえ、国民党軍で勇名を馳せていたので、彼の入党に難色を示した。李大釗は朱徳に対し、引き続き切磋琢磨し、機会を見て再度入党申請を出すように諭した。朱徳は失意の内にドイツに渡り、[[社会主義]]理論を学んだ。同年、ドイツで[[周恩来]]と出会う。さすがにその場での入党はかなわなかったが、翌[[1923年]]、周恩来の口添えで入党が許可された。なお、中国共産党史の扱いでは、1922年に李大釗に入党申請した時点で共産党員となったことになっている。
 
ドイツ留学中に2度労働運動に参加し、2回目の労働運動で官憲に捕縛された朱徳は[[放校]]になってしまう。そのため、[[1925年]]にドイツからソ連に移動し、[[モスクワ中山大学]]で軍事を学ぶ。この中で、朱徳は当時の軍閥が割拠する中国には地方利権保護的な資本主義や、軍閥を支える地方の[[プチブル]]を生む土壌となった私有財産制を制限する社会主義革命が必要であること、しかしそのためには軍閥を打倒する戦闘行為を避けて通れないこと、社会主義化を支えるのは共産党であるが、非合法で地下組織の状態では[[ゲリラ]]戦が有効であることなどを導き出したと思われる。ソ連留学中に教官に提出したゲリラ戦に関するレポートは緻密なものであり、軍人朱徳の真骨頂であったと言う。
 
[[1927年]][[8月1日]]<ref>南昌蜂起が勃発したこの日は、中国人民解放軍の創立記念日となっている。</ref>、[[南昌蜂起]]を指導。蜂起自体は失敗に終わったが、その後、共産党の軍事組織[[紅軍]]の主要な指導者の一人となり、[[1928年]]には紅軍第四軍の軍長を務める。朱徳はこの頃、[[井崗山]]で[[毛沢東]]と共に後の八路軍に通じる基本戦略を打ち立てた。それは、「敵が進めば我は退き、敵が休めば我は撹乱し、敵が疲れたら我は打ち、敵が退けば我は進む」という言葉(いわゆる十六字訣)に象徴される徹底したゲリラ戦術である。
96行目:
党務の面においては、[[1945年]]に[[中国共産党中央政治局|中央政治局]]委員・[[中国共産党中央書記処|中央書記処]](現在の[[中国共産党中央政治局常務委員会|中央政治局常務委員会]])書記に選出、[[1956年]]の第8期党中央委員会第1回全体会議(第8期1中全会)では、中央政治局常務委員に選出され、[[中国共産党中央委員会|中央委員会]]副主席に就任。毛沢東・劉少奇・[[周恩来]]らとともに党の最高首脳に列したが、政治的に目立った指導力を発揮しなかった<ref>『毛沢東秘録』下、376ページ。</ref>。
 
[[文化大革命]]が始まると、[[1966年]]8月の第8期11中全会で党副主席の職を解かれた。全人代常務委員長・政治局常務委員には残留したものの、序列も第4位から第9位に降格された。さらに翌年には、文革を進める[[林彪]]・[[江青]]らによって「大軍閥」と攻撃され、[[1969年]]の第9期1中全会で政治局委員に降格させられた。林彪墜死後の[[1973年]]、政治局常務委員に復帰。
 
[[1975年]]1月、国家主席制の廃止にともない、全人代常務委員長として国家元首格となる。[[1976年]][[7月6日]]、[[北京]]で死去。享年89。
 
朱徳は[[毛沢東]]とは同じく農村の出身であり、肝胆相照らす仲として、毛と刎頸の交わりを結んだ。「毛朱」或いは「朱毛」と並び称され、敵の多い毛沢東にあって、終生変わらぬ友情を保った。
 
かつて[[人民元]]の100元紙幣に毛沢東・劉少奇・周恩来と並んで肖像が描かれていた。
 
=== 年譜 ===