「松永久秀」の版間の差分

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=== 織田家臣時代 ===
* 織田信長は通説では家臣に対して厳しい人物と言われるが、久秀への対応は甘かった。3度目の反逆でも茶釜「平蜘蛛」と引き換えに助命を考えていた節があり、信長が一目置く武将であったとの見方もある。また、信長が語った久秀の「三悪事」(三好家乗っ取り・永禄の変・東大寺大仏殿焼き討ち)に対し、信長自身も、主君に当たる織田大和守家の当主であった[[織田信友]]を討滅し<!--斯波義銀の名による「上意打ち」という建前なので、暗殺ではない-->、将軍であった足利義昭を追放し、[[比叡山焼き討ち (1571年)|比叡山焼き討ち]]を敢行する等、久秀とまったく同じような所業を成しているため、似た者同士、親近感を抱いていたのではないかという説もある<ref>信長は義昭を擁して上洛した際、義昭は兄の義輝暗殺の首謀者として誅殺するように命じたが信長は久秀を庇って助命に持ち込んだ。武田信玄の[[西上作戦]]で反逆した際も信長は所領の没収だけで許した。信長が反逆して許しているのは家督相続時に離反した[[柴田勝家]](ただし勝家は1度)の他は久秀だけしかおらず、しかも久秀のように2度も許して3度目も許そうと使者を送った例は他に無い。</ref>。あるいは下克上でのし上がった乱世の奸雄としては[[斎藤道三]]とも類似しており、信長は道三の面影を久秀に見ていたのではないかという説もある(信長にとっては、道三は義父であるばかりか、美濃の支配権を譲ってくれた恩人でもある)
* [[中風]]の予防のため、毎日時刻を決めて頭のてっぺんに灸をすえていた。自害の直前でさえ、灸の用意を命じ、部下から「この期に及んで養生もないでしょう」と言われたが、「いざ腹を切る時に、中風のせいで失敗したら(腹を切るに及んで)臆したと思われる。今までの武名が一時に廃れるではないか」と言って灸を据えさせた後、自害したという。