「アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタイン」の版間の差分

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[[1618年]]にボヘミアの[[プロテスタント]]が反乱を起こし、[[プファルツ選帝侯領|プファルツ]][[ライン宮中伯|選帝侯]][[フリードリヒ5世 (プファルツ選帝侯)|フリードリヒ5世]]をボヘミア王に選出すると、反乱政府の金庫を奪って抵抗、[[神聖ローマ皇帝]][[フェルディナント2世 (神聖ローマ皇帝)|フェルディナント2世]]に味方して反乱鎮圧に貢献、[[1620年]]に反乱鎮圧に伴うプロテスタントの領土没収及び売買に加わり土地を買い漁り、ボヘミアでも有数の大貴族にのし上がった。また、[[1620年]]から[[1623年]]にかけて軍資金不足の皇帝に資金融資及び私兵を提供、同年に北ボヘミアの[[フリートラント]]侯に任じられ、フェルディナント2世の側近[[カール・フォン・ハラハ]]の娘エリーザベトと結婚して宮廷に足掛かりを築き、[[1625年]]に自前の軍勢徴募を申し出て許可され、皇帝軍総司令官に任命された<ref>菊池、P83 - P85、ウェッジウッド、P180 - P184。</ref>。
 
そうして3万の軍を集めて北ドイツへ出兵、先に皇帝の命令で出陣していた将軍[[ティリー伯ヨハン・セルクラエス|ティリー伯]]と合流して[[デンマーク]]王[[クリスチャン4世 (デンマーク王)|クリスチャン4世]]、[[エルンスト・フォン・マンスフェルト]]、[[クリスティアン・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル]]などのプロテスタント諸侯を討伐することを決めて北上した。このうちクリスティアンは急死してマンスフェルトがヴァレンシュタインの駐屯地に現れ襲撃したが、ヴァレンシュタインは迎撃してマンスフェルト軍を撃破([[{{仮リンク|デッサウの戦い]]|de|Schlacht bei Dessau|en|Battle of Dessau Bridge}})、ティリーもクリスチャン4世に勝利([[ルッターの戦い]])してプロテスタント軍は全て掃討され、勢いに乗ってメクレンブルク、[[ユトランド半島]]に進出、クリスチャン4世は海上へ逃れた。[[1628年]]にはフェルディナント2世により[[メクレンブルク=シュヴェリーン]]公[[アドルフ・フリードリヒ1世 (メクレンブルク公)|アドルフ・フリードリヒ1世]]と弟のメクレンブルク=ギュストロー公[[ヨハン・アルブレヒト2世 (メクレンブルク公)|ヨハン・アルブレヒト2世]]が廃位され、代わりに功績を認められメクレンブルク公に叙爵された。
 
だが、その間に免奪税などの軍税制度を創出して占領地から取り立て、これが批判される一方、他の軍の略奪行為との兼ね合いから波紋を広げる。特に[[ブランデンブルク辺境伯|ブランデンブルク]][[ブランデンブルク統治者の一覧|選帝侯]][[ゲオルク・ヴィルヘルム (ブランデンブルク選帝侯)|ゲオルク・ヴィルヘルム]]はデンマーク戦争でヴァレンシュタインに何度も多額の金を支払い不満が高まっていたため、フェルディナント2世に対してヴァレンシュタインへの抗議を繰り返していった。また、ボヘミアの小貴族に過ぎないヴァレンシュタインが一気に帝国諸侯に成り上がったことも旧来の帝国諸侯たちの反感を買い、ヴァレンシュタイン及び皇帝政府は徐々に孤立していった。
 
1628年7月にヴァレンシュタインはプロテスタントの都市[[シュトラールズント]]を包囲していたが、頑強な抵抗及び[[スウェーデン]]とデンマークの援助で包囲は難航し撤退した。クリスチャン4世は直ちにドイツへ再上陸したが、待ち構えていたヴァレンシュタインは[[{{仮リンク|ヴォルガストの戦い]]|de|Schlacht bei Wolgast|en|Battle of Wolgast}}でデンマーク軍を破り、翌[[1629年]]の{{仮リンク|リューベック条約|en|Treaty of Lübeck|label=リューベックの和約}}成立でデンマークをドイツから締め出した。この時点で表立って反抗するプロテスタントがいなくなり、フェルディナント2世とヴァレンシュタインの権力は絶頂期に達した<ref>菊池、P88 - P93、成瀬、P488 - P489、ウェッジウッド、P211 - P212、P217 - P227、P230 - P243、P252 - P253。</ref>。
 
しかし諸侯の不満は収まらず、1629年にフェルディナント2世がプロテスタントの勢力削減及び諸侯の軍事力を制限してハプスブルク家の[[絶対君主制]]確立を企てた[[復旧令]]を発布するとたちまちプロテスタント・カトリック双方から反対の声が上がり、ブランデンブルク選帝侯ゲオルク・ヴィルヘルム、[[ザクセン選帝侯領|ザクセン]][[ザクセン君主一覧|選帝侯]][[ヨハン・ゲオルク1世 (ザクセン選帝侯)|ヨハン・ゲオルク1世]]、[[バイエルン選帝侯領|バイエルン]][[バイエルン大公|選帝侯]][[マクシミリアン1世 (バイエルン選帝侯)|マクシミリアン1世]]ら選帝侯はフェルディナント2世の嫡男[[フェルディナント3世 (神聖ローマ皇帝)|フェルディナント]](後のフェルディナント3世)の[[ローマ王]]選出拒否を楯に復旧令の撤回とヴァレンシュタイン罷免を要求、フェルディナント2世は窮地に立たされた。また、[[イタリア]]の[[マントヴァ公国]]で[[スペイン]]と[[フランス王国|フランス]]が介入した継承問題が起こると、スペインに迎合しようとヴァレンシュタイン軍を派遣しようとして拒否されたことからヴァレンシュタインにも不信感を募らせていった。
ティリーはスウェーデン軍の迎撃にザクセンへ向かったが、[[ブライテンフェルトの戦い (1631年)|ブライテンフェルトの戦い]]で大敗して皇帝軍が不利になり、続く[[レヒ川の戦い]]でティリーが戦死、バイエルンがスウェーデン軍に略奪されるがままになると、領地を失ったマクシミリアン1世にヴァレンシュタイン続投を訴えられたフェルディナント2世の懇願を受け復職した。この時、軍の支配権、和平交渉権、条約締結権、選帝侯位を要求したとも言われる。
 
復帰を受諾するとボヘミアを占領していたザクセン軍の排除に動き、傭兵隊長[[{{仮リンク|ハンス・ゲオルク・フォン・アルニム=ボイツェンブルク]]|de|Hans Georg von Arnim-Boitzenburg|en|Hans Georg von Arnim-Boitzenburg}}を説得して(賄賂を渡したとも)ボヘミアから撤退させ、ドイツへ深入りしたグスタフ2世の動揺を誘い北へ後退させた。しかし、かつてのように自ら鍛え上げた軍団ではなく、皇帝軍という既成の組織を指揮したこともあって精彩を欠き、[[1632年]]には[[ライプツィヒ]]郊外の[[リュッツェンの戦い (1632年)|リュッツェンの戦い]]でグスタフ2世アドルフを戦死させながらも皇帝軍は敗走し、戦後は残党討伐でドイツを転戦しながら、独自に講和を結ぼうとしたことから反逆の疑いをかけられ、1634年2月にエーガー(ヘプ)の居城で皇帝軍の[[将校]]に[[暗殺]]された。50歳であった。
 
リュッツェン戦後の行動や暗殺の理由については謎が多く、選帝侯位を得た後はボヘミアの王位を狙っているものとも噂された。グスタフ2世アドルフが居なくなったことで、ヴァレンシュタインの存在価値は急激に失い、裏切りの可能性から皇帝に危険視されたとも言われている。総司令官の座はフェルディナント2世の嫡男フェルディナントが就任、スペインと組んでプロテスタント軍の掃討に全力を尽くすことになる<ref>菊池、P117 - P130、P135 - P143、成瀬、P490 - P492、ウェッジウッド、P318 - P332、P339 - P355、P373 - P390。</ref>。
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