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'''三浦 貞久'''(みうら さだひさ、生年不詳 - [[1548年]][[10月17日]]([[天文 (元号)|天文]]17年[[9月16日 (旧暦)|9月16日]]))は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[武将]]。[[美作国]]の[[国人]]領主。[[三浦貞国]]の子。弟には[[三浦貞尚|大河原貞尚]]。子に[[三浦貞勝]]、[[三浦貞広]]。
 
天文7年([[1532年]])に父貞国の死により家督を相続。小勢ながら[[勝山城 (美作国)|高田城]]に拠って、たびたび[[尼子晴久]]の侵攻を撃退していた。しかし、貞久は天文17年(1548年)に病死すると、その隙を突かれて[[尼子氏]]に攻められた三浦氏は一時的に没落を余儀なくされた(『高田城主次第』『作陽誌』)。ただ、当時の文書では大河原氏に養子に入った実弟貞尚が[[尼子国久]]から娘を貰い婚姻関係を結んでいる等、既に尼子氏の勢力下に入っていたようである。