「大伴家持」の版間の差分

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[[桓武天皇|桓武]]朝に入ると、[[天応 (日本)|天応]]2年([[782年]])正月には[[氷上川継の乱]]への関与を疑われて一時的に[[解官]]され都を追放されるなど、政治家として骨太な面を見ることができる。同年4月には罪を赦され参議に復し、翌延暦2年([[783年]])に[[中納言]]に昇進するが、延暦4年(785年)兼任していた[[陸奥按察使]]持節征東将軍の職務のために滞在していた[[陸奥国]]で没した。
 
没直後に[[藤原種継]]暗殺事件が造営中の[[長岡京]]で発生、家持も関与していたとされて、追罰として、[[埋葬]]を許されず、官籍からも除名された。子の[[大伴永主|永主]]も[[隠岐国]]に配流となった。[[大同 (日本)|大同]]3延暦25年([[806年]])に罪を赦され[[従三位]]に復された。
 
== 歌人として ==