「カトリック連盟」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
120行目:
[[1631年]][[ブライテンフェルトの戦い (1631年)|(第一次)ブライテンフェルトの戦い]]で、ティリー伯に率いられたカトリック連盟は、スウェーデン軍に敗退する。翌[[1632年]]、両者は[[レヒ川の戦い|レヒ川にて会戦]]し、ティリー伯は負傷(後に死亡)、主導権はカトリック連盟からグスタフ・アドルフが率いるプロテスタント同盟に移った。バイエルン公国の首都である[[ミュンヘン]]すら占領され、以降、カトリック連盟は戦争において重要な位置を占めなくなった。
 
[[1635年]][[5月30日]]、内戦を終結させるべく[[神聖ローマ皇帝]]フェルディナント2世と帝国内のプロテスタント領邦の大部分との間で 、[[1629年]]に発布したプロテスタントの権利を圧迫する「[[{{仮リンク|復旧令]]|de|Restitutionsedikt|en|Edict of Restitution}}({{lang-de-short|Restitutionsedikt}})を取り下げて、[[1627年]][[12月12日]]に再確認された[[アウクスブルクの和議]]の体制に戻すという[[プラハ条約 (1635年)|プラハ条約]]が締結された。この条約で、諸侯間の同盟が禁じられたためカトリック連盟も消滅することとなった。
 
この条約は、諸国間の戦闘行為を終結させただけでなく、{{仮リンク|君臣信教一致の原則|en|cuius regio, eius religio|label=君臣信教一致(cuius regio, eius religio)の原則}}又は{{仮リンク|領邦教会制度|de|Landeskirche}}が帝国内で確立することにより、宗教が国家間の紛争の原因となることが終焉した。