「ジェームズ・モンロー」の版間の差分

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モンローは[[バージニア州]][[ウェストモアランド郡 (バージニア州)|ウェストモアランド郡]]に生まれ、[[アメリカ独立戦争]]に従軍した。1780年から1783年まで[[トーマス・ジェファーソン]]について法律を勉強し、1783年から1786には[[大陸会議]]([[連合会議]])の代議員になった。[[アメリカ合衆国憲法]]の批准を問うたバージニア会議では、反連邦党代議員として中央政府にあまりに大きな権限を与えすぎると主張して批准に反対した。それでもモンローは新しい連邦政府に積極的に関わり、1790年にはバージニア州から[[アメリカ合衆国上院]]議員に選出されて、ジェファーソンの一党(後の[[民主共和党 (アメリカ)|民主共和党]])に加わった。[[バージニア州知事]](1799年-1802年)として行政の経験を積み、[[フランス]]における外交官として1803年の[[ルイジアナ買収]]交渉に貢献して国民的な名声を得た。
 
[[米英戦争]](1812年-1815年)では[[ジェームズ・マディスン]]大統領の下で[[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]]および[[アメリカ合衆国陸軍長官|陸軍長官]]として重要な役割を演じた。[[1816年アメリカ合衆国大統領選挙]]では退勢著しかった[[連邦党]]からの抵抗もほとんど無く、選挙人投票の80%以上を獲得して大統領に当選した。大統領としてのモンローは党派的緊張を緩めようとして国内の巡行に出た。国家主義が盛り上がった時だったので何処に行っても歓迎され、党派の抗争は弱まり、「好感情の時代」が続いた。[[1819年恐慌]]が襲い、1820年にはミズーリ準州の加盟問題で国内が論争に巻き込まれた。それでも[[1820年アメリカ合衆国大統領選挙]]ではほとんど全会一致で再選された。[[1823年]]にはモンロー主義を発表し、これが[[アメリカ合衆国の外交史|アメリカ外交政策]]の規範になった。[[1825年]]に大統領職を辞すると財政的苦境に立たされた。[[1831年]][[7月4日]]に[[ニューヨーク]]市で死去した。
 
== 生い立ち ==
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