削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし
編集の要約なし
2行目:
 
== 歴史 ==
[[鎌倉時代]]には、得宗家は専属の被官である[[御内人]]、家政機関('''[[公文所]]''')と所領を持ち、[[執権]]、諸国の[[守護]]職や、[[六波羅探題]]をはじめ幕府の要職の過半を占める北条一門の最上位に位置づけられた。ただ[[北条時頼]]以前は得宗と執権は同一者であるのが通例であった。

鎌倉時代後半になると、得宗家は北条一門を含む他の有力[[御家人]]を圧倒するようになった。[[北条時頼|時頼]]以後には執権職に就いた後にそれを一族の者に譲って出家し、実権を握り続けるケースが見られる。このような執権職と得宗の関係は、同時代の[[朝廷]]における[[天皇]]と[[治天の君]]との関係に類似しているとも指摘されている。
 
[[元寇]]以後には[[御内人]]が幕政に影響力を発揮し、得宗邸で行われる北条一門や御内人の私的会合である寄合が[[評定衆]]による幕府の公式の合議体(評定)に代わって実質上の幕政最高機関となり、[[得宗専制]]体制を築く。
9 ⟶ 11行目:
[[平安時代]]末期に[[摂津源氏]]の[[源頼政]]の知行国だった[[伊豆国]]の小豪族に過ぎなかった北条氏は、伊豆へ[[流罪]]となっていた[[河内源氏]]の[[源頼朝]]の挙兵に従い、頼朝を[[征夷大将軍|将軍]]とする[[幕府]]を成立させる。頼朝の死後は頼朝室の[[北条政子]]や北条義時が幕政を主導し、[[和田氏]]などの有力御家人を排斥し、また[[承久の乱]]においても御家人を統率して[[朝廷]]や反北条勢力を抑えた。
 
3代将軍[[源実朝]]の死による源家の断絶後、鎌倉幕府は朝廷から迎える[[摂家将軍]]を推戴し、将軍の地位を形式的なものにする一方、政務決裁には事実上のトップである[[執権]]、その補佐である[[連署]]、合議機関である評定衆を置く集団指導体制を成立させる。これは形式的であっても御家人の主君は将軍であり、北条氏は御家人の第一人者に過ぎないという事情があった。

また、北条泰時は分家を重ねた北条一門を統率するため、惣領家の家政機関を置き、家政運営のための条文を定めた。
 
=== 得宗家による権力独占 ===
[[1246年]]、[[北条経時|経時]]が嗣子無くして没した際、弟・[[北条時頼|時頼]]の得宗家家督、執権職就任は就任寄合で決定している。時頼は前将軍[[藤原頼経]]を鎌倉から追放、与同する有力御家人を排除し、執権として確固とした権威を築く([[宮騒動]])。また[[宝治合戦]]で有力御家人の[[三浦氏]]を滅ぼし、摂家将軍で反得宗勢力の支持を集めていた5代将軍[[藤原頼嗣]]を廃立し、[[1252年]]、新たに[[宗尊親王]]を6代将軍に迎えた([[宮将軍]]または皇族将軍)。自らは病のため執権職を退くが、嫡子[[北条時宗|時宗]]が幼少だったため、[[北条氏 (極楽寺流)|極楽寺流]]の[[北条長時]]に執権を譲る。だが、実権は変わらず時頼にあり、長時は時宗へ繋ぐための傀儡に過ぎなかった。ここから得宗と執権の乖離が始まる。
 
時頼の死後、[[北条時宗|時宗]]は外戚の[[安達泰盛]]や御内人らに補佐され、2度にわたる[[元寇]]に対処する。1度目の[[文永の役]]の際、日本軍は[[元 (王朝)|元]]軍の集団戦法に苦戦した経験から、2度目の[[弘安の役]]では作戦指令が時宗の名で出され、得宗被官が戦場に派遣されて御家人の指揮にあたった。これにより、得宗とその家臣である[[御内人]]の発言力が強まるという結果をもたらした。時宗の死後特に[[二月騒動]]以降将将軍の専権事項である「御恩沙汰(将軍が御家人層の支持を持つ泰盛が幕政を主導に恩賞として弘安徳政所領開始す与え行為)」と「官途沙汰(将軍人の代表であ官位官職を王朝に推挙す[[内管領]]の[[平頼綱]]と対立行為)」を得宗が掌握た事は[[霜月騒動]]で滅ぼさその権力を決定的なものにした。こは御家人の第一人者に過ぎない北条氏が、御家人の主君たる将軍の権力代行者になった事を意味する。
 
時宗の死後、幼少の執権かつ得宗である[[北条貞時|貞時]]に代わって実験を握ったのは、北条氏の外戚で、御家人層の支持を持つ[[安達泰盛]]で、幕政を主導して弘安徳政を開始する。しかし北条氏の私的家臣である御内人の代表である[[内管領]]の[[平頼綱]]と対立し、[[霜月騒動]]で滅ぼされる。これ以降、得宗が実際の権力を行使できない場合は、代わって内管領が主導する体制となった。
 
=== 得宗専制と御内人の擡頭 ===