「川田芳子」の版間の差分

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モダンな華々しさが魅力の栗島とは対照的に、純日本的なしとやかさを魅力に、日本的でおとなしいものの芯はしっかりした女性像を演じて、人気を得、栗島、[[五月信子]]と並ぶ初期の松竹蒲田の看板女優として活躍した。[[賀古残夢]]監督の作品の常連だったが、賀古が松竹を退社した後は[[野村芳亭]]監督に重用され、当時のベストセラーの[[鶴見祐輔]]の原作を映画化した[[1929年]](昭和4年)の野村監督の『母』では、万人の涙を誘った。また、『清水次郎長』などでは[[勝見庸太郎]]と共演。[[1923年]](大正12年)、[[関東大震災]]により撮影所が[[下加茂]]に移るが、翌年蒲田に戻り、川田もそれに準じた。その後、諸口とのコンビで『赤坂心中』などに主演したほか、主に時代劇で活躍した。1929年には、栗島、[[岩田祐吉]]、[[藤野秀夫]]らと共に大幹部に昇進した。
 
[[1930年]](昭和5年)以降は、母親役で活躍したが、[[1935年]](昭和10年)に送別映画『母の愛』を最後に映画界を引退した。引退後は日本舞踊[[市山流]]の名取などを務め、関西新派の舞台に出演したり戦後に一時『[[鐘の鳴る丘]]』や『[[悲恋模様]]』などの映画に出演したこともあったが、その後は養女と二人でひっそりと暮らしていた。晩年はその養女にも先立たれ、最期は[[草加市]]のアパートで一人で迎えた。[[1970年]](昭和45年)[[3月23日]]、心臓麻痺により死去。74歳没。遺体は翌日、アパートの大家によって発見された。
 
==代表作==